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今回は、マリーアントワネットの次男ルイ・シャルルについてお伝えします。
 
 
彼は、フランス国王・ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男として1785年3月27日に生まれました。生まれたときにノルマンディー公という爵位を受けています。
 
 
彼は、ある意味、ルイ16世の一家の中でもっとも悲劇的な結末を迎えた子供でした。

 
 

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◆流されやすいが心優しいルイ・シャルル

 

【出典元:Wikipediaルイ17世】

 
ルイ・シャルルは、フランス国王の子供として、生まれたときから何不自由なく豊かな暮らしをしていました。王子さまですから当然ですね~。
 
 
大きな子供部屋にはテラスがあり、そこからきれいに手入れされた庭園が見えます。池には噴水があり、きれいな水をとめどなく流れていました。夢のようなゴージャス生活です。
 
 
養育係、近侍、部屋つき給仕など、身の回りの世話をする係の人間が、たくさん仕えるおぼっちゃまです。
 
 
ルイ・シャルルは、心優しい少年だったとマリーアントワネットは日記に記しています。自分が嬉しかったことを姉にもしてあげたいと思う、思いやりのある少年だったそうですよ。
 
 
でも、一方で、マリーアントワネットに似た、人懐っこく軽薄な性格をしていたようです。それをマリーアントワネットは、母として危惧していました。

 
 

◆4歳でフランス革命勃発

 

 
1789年7月、バスティーユ牢獄が民衆に襲われ、フランス革命が始まったとき、ルイ・シャルルはわずか4歳でした。
 
 
この1カ月程前に、兄の王太子ルイ・ジョセフが病死しています。
 
 
【関連記事】
⇒★マリーアントワネットの4人の子供たちと子孫は?革命後も壮絶な人生が待っていた!
 
 
それから4年後、タンブル塔に幽閉されていた国王一家のうち、国王ルイ16世が死刑宣告を受けました。
 
 
すぐにギロチンによる処刑が執行され(1793年1月21日)、ルイ・シャルルは、その瞬間にフランス国王ルイ17世になったのです。
 
 
マリー・アントワネットと叔母のエリザベートは、ルイ・シャルルの前にひざまづいて、ルイ17世の誕生を祝福しました。
 
 
叔父のプロヴァンス伯(ルイ16世の弟、王政復古後のルイ18世)ら、外国に亡命している反革命派によって、ルイ・シャルルはフランスの新国王とされ、ルイ17世と呼ばれることになります。
 
 
でも、ルイ・シャルル本人は、革命中の幽閉された身で戴冠式などできるわけもなく、自分が国王であるということも、それがどういう意味だったのかも、分からなかったのでした。

 
 

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◆タンブル塔で家族と引き離され革命家に洗脳される

 

 
1793年7月、ルイ17世は家族と引き離されてしまいました。ルイ16世が使っていたタンプル塔の3階に1人だけ移され、ロベスピエールを信望する文盲の靴屋のシモン夫妻が世話係にあてがわれました。
 
 
そして、教養のない粗暴で野蛮なシモンが、シャルルを「立派な革命家」になるように教育していったのです。
 
 
シモンについては、ルイ17世に対してかなりひどい虐待行為があったという説と、わりと最後まで友好的だったという説に分かれます。(Wikipediaは前者です)
 
 
当時の記録はそれを残した者の立場でかなり違うので、今となっては真相は分かりづらいです。
 
 
シュテファン・ツヴァイクの『マリーアントワネット』は、シモンは友好的だったという説に近いです。
 
 
『ベルサイユのばら』でもそうです。池田理代子さんは、ツヴァイク同様、その後のルイ17世の悲惨さをWikipediaのように詳細には伝えていません。あえてそうしなかったのだろうと推測できます。
 
 
1793年10月16日、フランス王妃・マリーアントワネットが処刑されました。
 
 
そうこうするうちに、シモンがルイ17世につきっきりなので、彼が王党派に買収されないかと不安になったパリコミューンの指導者は、シモンとルイ17世を引き離すことにしました。
 
 
1794年1月には、シモン夫妻がタンブル塔から去ります。そして、ルイ17世への本当の虐待(放置)は、ここから本格的になっていったのです。

 

 

◆最期は独房で放置された

 

 

1794年2月、国内の王党派や外国の君主から正式なフランス国王とみなされていたルイ17世を、パリコミューンは、政治的に利用されるのではないかと恐れました。
 
 
そうして、もともと家族の食堂だった8畳ほどの光も風も通さない部屋に、ルイ17世を押し込んで放置したのです。
 
 
そのころには、母も叔母も処刑されてしまい、タンプル塔にはルイ17世とその姉のマリー・テレーズだけが残されました。(姉は上の階にいた)
 
 
トイレがなく部屋の掃除もされず、ルイ17世には1日に1度だけ、小さな窓からパンとスープが差し出されるだけでした。
 
 
そのときに生存確認されるだけという生活だったのです。完全に当時の終身刑の囚人扱いですね。
 
 
8歳の何の罪もない子供にと思うと気分が悪くなりますが、当時のヨーロッパの囚人の扱いと考えると、この待遇は普通なのでした。つまり、革命時には「国王であること自体が大罪だった」ということです。
 
 
彼に救いの手が差し伸べられたのは、ロベスピエールが処刑され恐怖政治がおさまった後でした。
 
 
1795年5月、独房に入れられて初めて医師の診察が許可されました。
 
 
汚物と虫にまみれたその部屋で、ルイ17世は立つこともできなくなっており、頭と首には大きな腫れ物ができ、背中が曲がり、体のあちこちに腫瘍ができて激痛を訴えていました。
 
 
ルイ17世を診察したドゥゾー医師は「最もひどい仕打ち、救いがたい惨状、なんという犯罪だ」と驚愕しました。

 
 

◆医師とその助手の謎の死

 

 
医師による治療が行われましたが、ルイ17世の病状は、すでに手遅れの状態でした。優しく献身的に接する医師の治療が始まって3週間後、なーんと、ドゥゾー医師とその助手が謎の死を遂げてしまったのです。
 
 
ルイ17世が回復しては困る大きな力が介入したということでしょうか。ミステリーです。
 
 
その後、新たに主治医に選ばれたペルタンが、6月に治療に向かいました。でも、時すでに遅しで、ルイ17世は衰弱がひどく、もう手のほどこしようのない状態でした。
 
 
1795年6月8日、ルイ17世はわずか10歳の生涯を閉じたのでした。

 
 

◆ルイ17世の心臓はサンドニ大聖堂に

 

【出典元:Wikipediaサン=ドニ大聖堂】

 
ルイ17世の死後、自分が本物のルイ17世だと名乗る者が続出しました。でも、今では、DNA鑑定によって、ルイ17世は確かにタンブル塔で亡くなったと断定されています。
 
 
子供だったからギロチンで処刑されることがなかったのでしょうけど、それよりもっとひどい処遇だと思います。彼は、じわじわと2年もかけて、革命に殺されたのです。
 
 
哀しいのは、外国にいる叔父プロバンス伯(後のルイ18世)にとっても、いないほうが都合がよい存在だったということでしょう。
 
 
力のある逃亡貴族や外国の王家の誰もが、本気で彼を救おうとせず見捨てたのでした。
 
 
マリーアントワネットを中心にした「フランス革命」の書籍は、伝記文学の金字塔と呼ばれるツヴァイクの作品がおすすめです。
 
 
下巻の後半は革命裁判の内容なので少しだるくなりますが、「怖い絵」で知られる中野京子さんの翻訳で読みやすいです。
 
 
⇒★「フランス革命」を知るにはまずこの一冊から!ツヴァイクをおすすめする理由






 

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