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こんにちは。
「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉を生んだ源義経。
京都の鞍馬や五条、奈良の吉野などに今もその名残を残す歴史的にたいへん人気のある「源氏の武将」です。
なにより「戦の天才」で源氏に勝利をもたらした武将でありながら、兄にうとまれ悲劇的な死を遂げところが、悲劇のテーマにぴったりなので、昔話や能などの題材によく選ばれています。
源義経は、伝説が多くで独り歩きしている部分が大きいです。実は元のフビライ=ハンだったなんてとんでも説までありますし…。
今回は、妙な伝説抜きのいわゆる通説とされている源義経の一生を簡単にお伝えします。
(年表は、この記事内の下の方にあります)
目次
◆源義経の簡単な経歴
・生誕:1159年
・死没:1189年 31歳(自殺)
源義経は源義朝(みなもとのよしとも)の9男で、父が「平治の乱」で敗死したときは、まだ2歳でした。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝は、彼の兄(義朝の3男)です。
源義経が生まれた時代は、「源氏」が同じ武家のライバル「平氏」に押されていた時期でした。
このとき、兄の頼朝は伊豆(静岡県)に流されていました。
一方、義経は頼朝とは違って、幼少期に京都の鞍馬寺に預けられました。だから、この兄弟2は大人になるまで、顔を合わせたことがなかったのです。
◆母が絶世の美女? 義経のイケメン伝説
英雄にはよくある話ですが、源義経にも美形伝説があります。
でも、彼の場合、まったく根拠のないことではないようです。実は、義経の母・常盤御前(ときわごぜん)は、ひときわ美しい女性だったといわれる人だったからです。(おそらく後世、話はもられてるでしょうけど…)
彼女は、ただ容姿が美しかっただけでなく、政治力もあるなかなか世渡り術にたけた女性のようでした。
常盤御前は息子の命を助けてもらう代わりに平清盛の愛人になった愛情深い母と言い伝えらえていますが、実際はもっとドライだったでしょう。
平安時代と今では、倫理観が全く違います。(清盛は美女が大好物でしたが、すぐにあきて捨てるのも早かったようです。)
常盤御前も清盛の愛人になった後、都の公家と結婚しています。
源義経は都の公家に近いところで育ったので、鎌倉にいる兄とはまったく違う価値観を持っていました。
「いつか必ず平氏を倒す」
これは2人に共通の「志(こころざし)」でしたが、その目指す先は、異なるものだったのです。
頼朝は公家から独立した武家中心の国づくりを考えていまいたが、義経はあくまで武家は公家の下にお仕えする身分のものと考えていました。つまり、義経の目標はあくまで「源氏」が「平氏」にとって代わることにすぎなかったのです。
この考え方の違いが、やがて兄弟の大きなあつれきとなっていきました。
ともあれ、少年時代の義経は、「平家打倒」を強く心に誓って明けても暮れても鞍馬山で訓練を続け武芸に励んだのでした。
この京にいた頃に、生涯の家来となる「武蔵坊弁慶」と出会っています。
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◆戦の天才として源氏を勝利に導く
16歳のとき、義経は鞍馬寺をぬけ出しました。そして、当時「第2の都」だった大都市・奥州平泉(岩手県)に行き、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元で過ごしたのです。
1180年に兄の頼朝が「平氏打倒」ために兵をあげると、22歳になっていた義経は頼朝のもとへかけつけ共に戦いたいと申し出ます。このとき、富士川近くで兄弟は初めて顔を合わせました。
そして義経は兄の頼朝から軍の指揮を任され、平氏との戦いに連勝して大活躍したのです。
『平家物語』『源平盛衰記』の中にも、彼が徳に活躍する「源平の合戦」が描かれています。
特に有名なのは、「一の谷の合戦」「屋島の合戦」「壇ノ浦の合戦」です。
「一の谷」では切り立った背後の崖から馬で駆け下りるという不意を突いた作戦が成功し、「屋島」では嵐の中で平氏軍の背後に回り、油断しているところをおそって勝利しました。
どちらも奇襲攻撃ですね。これが義経の得意な戦法でした。
「一の谷の合戦」は不意打ちだった!
「一の谷の合戦」といえば、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」で知られる『平家物語』の名シーンの1つです!
神戸にある「一の谷」は、浜の後ろ側に切り立った崖のような危ない場所です。
その崖を馬に乗ったまま駆け下りるという不意をつく戦法で、義経は平氏に圧勝したのでした。
崖を馬でかけおりるというのは、かなり無茶苦茶な戦法です。落ちて死んだ馬もいたようですよ。
そんな彼のオラオラむちゃぶり名言が、「鹿が通れるなら、馬も通れる!」です。きっとかなり大胆な性格の人だったのでしょう。
「鹿と馬はちがうやろ~~~~!!」
そうツッコミたかったけどできなかった部下たちが哀れです。
愛馬をものすごく大切にしていた武将の畠山重忠などは「うちの三日月にそんな危ないことさせられんわい!」と思い、愛馬「三日月」を自分が背負って駆け下りたそうですよ。
これは『源平盛衰記』の名シーンとして残っています。(銅像も残っています。)
ちなみに、この時代の日本の武将が乗っていた馬は、サラブレッド(←明治時代に欧州から輸入)ではなく、体高130cm以下の「ポニー(小型馬)」でした。
だから、担ごうと思えば担げたのかも?
ちなみに、畠山成忠は「怪力武将」として知られる人物です。
また、『平家物語』の中でもとびきりの美少年「平敦盛」の最期もこの地です。
◆語り継がれる義経の悲劇
義経は軍神のような凄まじい活躍をし、平氏との戦いで快進撃を続けました。まさに「ヒーロー」です。
でも、彼の戦い方は敵の裏をかく、いわゆる「汚い手」を使った戦い方が多かったのです。(当時は「我こそは…」と名乗りをあげて戦うのが王道だった)
そんな強引で自己中なやり方に腹を立てる味方の武将もたくさんいました。嫉妬はもちろんのこと、東国武将たちと協調できなかったことも嫌われる原因だったのです。
また、兄に伝えることなく独断で動くことが多かったのも、頼朝の不信感を買う原因になりました。
頼朝は兄弟だからと義経を特別扱いせず、他の家臣と同じように扱いました。これは政治家・頼朝らしい判断だったと思います。
そして、信頼厚い梶原景時(かじわら かげとき)などの武将から、何度も義経の傲慢な様子の報告を受けていた頼朝は、とうとう鎌倉に戻れば処罰する、腰越という鎌倉の手前の場所から先へは近寄るなという命令を出したのです。
◆兄弟不仲の原因は「朝廷」への考え方の違いだった
源義経が兄の頼朝から完全に見放されたのは、兄の許可を取らずに勝手に後白河法皇(ごしらかわほうおう)から冠位をもらったことでした。
彼のもらった冠位は、宮中に入ることができる、つまり「公家の仲間入りができる」高い身分だったのです。
義経はあくまで頼朝の部下のはず、でも、冠位をもらったことで、自分は後白河法皇の家臣になりましたと宣言したようなものです。
後白河法皇は、頼朝から「大天狗」と呼ばれるほどの策略家です。
法皇は、あまり物事を深く考えない義経を操って、頼朝との兄弟仲を裂こうとしていたのでした。
でも、義経はやはりあまり深く考えず、あいかわらず兄の頼朝にも、忠誠を誓った手紙(腰越状)を送っています。(←冠位をもらったことで頼朝が怒こるとは思っていなかった)
先程もお伝えしましたが、頼朝は法皇(朝廷)から独立した「武家の政権」を作りたかったのです。
それなのに、義経がしたことは、朝廷の下に武家が位置すると認めたようなものでした。ずっと都で暮らしてきた義経には、兄の思いが分からなかったのでしょう。
そうして、とうとう本気で頼朝にさじを投げられ、義経はお世話になった平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って落ち延びます。
でも、高齢の秀衡はそれからしばらくして病死し、跡を継いだ息子・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は、義経をかくまうと奥州藤原氏が源氏に討たれる恐れがあると感じ恐怖を感じました。
そうして、泰衡(やすひら)は、父が義経に与えた屋敷を襲ったのでした。
追いつめられた義経は、妻子を自分の手で殺して自害して果てたと伝わります。31歳の生涯でした。
◆源義経の簡単な年表
・1159(0歳)
源義朝の9男として誕生
・1160(2歳)
「平治の乱」で父の源義朝が敗死
母の常盤と大和国(奈良県)に逃げようとしたが平氏に投降
兄の源頼朝は、このころ伊豆へ流罪
・1169(11歳)
京都の鞍馬寺に預けられる
・1174(16歳)
平泉へ下向し奥州藤原氏の元に身を寄せる
・1180(22歳)
以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる
源頼朝が平氏討伐の兵をあげる
・1184年(26歳)
「宇治川の合戦」勝利(木曽義仲討伐)
「一ノ谷の合戦」勝利
・1185(27歳)
「屋島の合戦」勝利
「壇ノ浦の合戦」勝利→「平家一門」滅亡
後白河法皇より冠位をもらう→頼朝激怒
・1187(29歳)
兄の頼朝から命を狙われ奥州藤原氏の元へ落ちのびる
かくまってくれた藤原秀衡が死去
・1188(30歳)
秀衡の跡を継いだ藤原泰衡の元に「義経追討の宣旨」が下る
・1189(31歳)
「衣川の合戦」
藤原泰衡に屋敷を攻められ自刃する
まとめ
最後に、源義経の一生についてのポイントをまとめておきます。
・平安末期に源氏の惣領・源義朝の9男として誕生
・兄は鎌倉幕府を作った源頼朝
・「源平合戦」で大活躍して源氏に勝利をもたらした
・平氏滅亡後、兄の頼朝と不仲に
・奥州平泉で自刃
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