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こんにちは。
 
京都市内に「室町」という地名があります。京都御所の近くに「室町通」という通りがあるのです。そこに足利家の将軍が「花の御所」を建てたため、その幕府を「室町幕府」と呼ぶようになったのでした。
 
 
そう、室町幕府は武家政権なのに、公家のおひざ元・京都御所の目と鼻の先にあったのです。
 
 
日本史上「幕府」と呼ばれた政権は、たった3つです。
「鎌倉幕府」・「室町幕府・「江戸幕府」ですね。
 
 
江戸幕府は、260年も続いて幕末に終焉を迎えた徳川政権。
鎌倉幕府は、源平の戦いを制した源頼朝が開いた史上初の武家政権。
 
 
では、室町幕府は?と言われると、「えーっと」という感じでなんだかはっきりしません。それは室町幕府の成り立ちを追って行くと分かります。この政権は、成立時からかなり不安定で脆弱な組織だったのです。
 
 
江戸幕府を開いた徳川家康は、かなりの勉強家で、鎌倉幕府の長所をお手本にし、室町幕府の滅亡原因をしっかり勉強して、二の舞にならないように江戸幕府を作ったといわれています。
 
 
それでは、まずは室町幕府の成り立ちを見ていきましょう。

 
 

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◆1338年足利尊氏が室町幕府を開く

 

 
鎌倉幕府滅亡から5年後、1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立しました。
 
 
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒した功労者の1人でした。始めは協力していた後醍醐天皇が「建武の新政」なる武家勢力の排斥に乗り出したことから、けんか別れして独自に武家政権の設立を目指しました。
 
 
尊氏は、かなりアスリートっぽいかっこいい人物のようですよ。「武家の大将」に相応しいさっぱりしたタイプだったと思われます。
 
 
鎌倉幕府は、「史上初の武家政権」でしたが、それゆえ盤石とはいえず、まだまだ一大勢力だった天皇を中心とした公家と、バランスを取りながら政治を行っていました。
 
 
次第にそのひずみが大きくなっていき、朝廷中心の政権を取り戻そうと考えたのが後醍醐天皇で、武家中心の政権を目指したのが足利尊氏だったのです。
 
 
でも、争いの末に勝ち取って成立した「室町幕府」は、その始まりから強い権力を持ち得ませんでした。まず、成立直後に「観応の擾乱」が起こり、尊氏と直義の兄弟による争いで、幕府の勢力が2分されてしまったのです。
 
 
そしてまた、吉野に逃れた後醍醐天皇の「南朝」の勢力もまだまだ大きかったのでした。
 
 
発足当初からごたごたと落ち着かなかった室町幕府ですが、3代目になって、ようやくカリスマ的な統治者が現れました。足利義満です。

 
 

◆足利義満で最盛期を迎えたけど、その後弱体化

 

 
室町時代にも、華やかな時期がほんの一時期ありましたよ。それが、3代将軍・足利義満の時代でした。
 
 
彼の時代に、室町幕府は最盛期を迎え、金閣(鹿苑寺)に代表される「北山文化」、五山の文化が栄えました。
 
 
でも、義満の統治の終わりごろから4代・5代と進むにつれて、幕府の求心力はどんどん衰えていきました。そして、4代将軍の息子にあたる第6代将軍・足利義教が「恐怖政治」を始めたのでした。
 
 
足利義教については、こちらを参考に。彼の息子が「応仁の乱」の一因となる7代将軍・足利義政です。

  ↓


 

 
足利義政の後、次の将軍の座をめぐって息子と弟が対立します。それに、守護大名や地頭などの勢力争いがからみあって、150年にも渡る不毛な争い「応仁の乱」が起こったのでした。
 
 
この戦いで、京の町は荒廃し、幕府の権威は地に堕ちました。そうして、力をつけた地方の武家が台頭し、戦国時代に突入していったのです。

 
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◆室町幕府は、なぜ不安定な政権だったのか?

 
 
室町幕府が強い求心力をもたず、常に不安定だったのは、幕府の直轄領が少なく、充分な兵力を持っていなかったこと、また、守護大名の力が強かった点などが挙げられます。
 
 

(1)直轄領が少ない=財源不足

 

 
室町幕府の財源は、将軍家(足利家)の所領の「御所所」から得られるものでした。でも、その直轄領が少なくて、圧倒的な財源を確保できなかったのです。日野富子が財テクに走ったのも、もともと財政難だったからなのかもしれません。その上、この幕府は、事が起こったときに武力で制圧するだけの軍事力を持っていませんでした。
 
 
お金と兵力のない幕府、なめられても仕方がないのです。

 
 

(2)力のある守護大名が多かった

 

 
鎌倉時代に設立した「守護・地頭」の「守護」は、あくまで鎌倉幕府の命で赴任した土地の軍事を司るという役割をおっていました。
 
 
でも、室町時代になると、鎌倉幕府滅亡時の混乱に乗じて「守護」はめきめき赴任された地で力を伸ばし、その領地の統治も行うようになっていたのです。今でいう地方自治が進みつつあったのです。
 
 
もちろん、将軍家は何もしなかったわけではありません。地方の守護が力を付けすぎると、幕府の存続が危うくなってきますから。
 
 
そうして設立させたのが、三管領(細川・斯波・畠山)と四職(赤松・一色・京極・山名)でした。
 
 
この制度で、有力大名が互いにけん制するように仕向け、また、特別力を持った守護大名を幕府の命で討伐させたりしたのです。
 
 
でも、幕府が大きな権力を握ることはできませんでした。結局、室町幕府は、将軍家と有力守護大名たちがけん制しあう「連合政権」のような不安定な政権だったのです。
 
 
もともと脆弱だった室町幕府は、将軍の跡目争いに有力守護大名の権力争いなどが絡み合って、その後もどんどん弱体化していきます。
 
 
そして1573年、戦国大名の織田信長に、15代将軍・足利義昭が京都から追い払われ、室町幕府は終焉を迎えることになりました。
 
 
この足利義昭の追放の年が、一般的には「室町時代」の終わりとされ、それ以降は「安土桃山時代」と呼ばれます。

 
 

◆おわりに


 
室町時代は、一般的に、1338年から1573年といわれます。ちょっとあやふやなのは、織田信長に京を追い出された足利義昭が、その後もしばらく「将軍職」にとどまっていたからです。
 
 
でも、この年を境に、「安土桃山時代」と呼ばれるようになるのは、確かなのでした。
 
 
室町時代は幕府は脆弱でしたが、文化史的には非常に重要な時代だと思います。
 
 
なんといっても私の好きな「和風」の原型がこの時代に作られました。
 
 
室町時代の芸術の発展は、ダメ将軍・義政の貢献が大きいですが、その財源は妻の日野富子の財テクによる資産だったといわれます。鬼女のように言われる日野富子ですが、援助してあげていたんですね。
 
 
そして、銀閣に代表される「東山文化」は、その前の義満の「北山文化」(金閣)があってこそなのです。
 
 
室町幕府の初期は、公家文化と一線を引こうとして、中国風の文化を積極的に取り入れました。日明貿易が盛んな時代でもあったので、当時の武家の絵画や装飾品、茶道具などは、すべて「中国製」だったのです。
 
 
その後、義政の時代になると、それまでの反動で「日本独自の文化」に目覚めるようになります。もちろん中国の美術や禅の文化は取り入れながらですよ。
 
 
そうして、今の「和室」の基本の建築(書院造)や茶道・華道・書道(掛軸)、庭園などの文化芸術が発展していったのでした。

 
 

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