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こんにちは。
 
 
室町幕府8代将軍の足利義政は、銀閣寺を建て東山文化を発展させた文化・芸術を好む人でした。こういうタイプは、政治や権力に興味の薄い人が多いです。義政は武士の棟梁・将軍なのに、そういう性質の人だったのです。
 
 
義政は、6代将軍足利義教の庶子(側室の子)として誕生しました。
 
 
7代将軍に、義政の兄・義勝がなったのですが、10歳で亡くなったので、彼にお鉢が回ってきたのです。
 
 
義政には、同じ母から生まれた弟がいました。
 
 
それが、足利義視(よしみ)です。

 
 

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僧侶として育てられた足利義視

 

 
足利義視は、1439年に生まれ、4歳で出家して義尋(ぎじん)いう名を与えられました足利将軍家では、家督争いが起きないように、嫡男以外の男子は幼いうちに出家させる方針があったのです。
 
 
でも、兄の義政には、なかなか嫡男が生まれませんでした。室町幕府は力が弱く、幼くして将軍となった義政は、親類や有力官僚などの汚い権力闘争を宮中で見て育ち、政治に関心を持たなくなっていきました。
 
 
彼は、そのうち、将軍職を早く次に譲って、芸術の世界で生きたいと願うようになりました。
 
 
そうして、義政は義尋に将軍になってくれないかと頼んだのです。義尋は僧としてそれなりに満足な暮らしをしていたので、その申し出を断ったのですが、何度も何度も兄がしつこく誘うので、とうとうそれに応えて1464年に還俗したのでした。
 
 
そして、彼は、足利義視(よしみ)と名乗り、義政の妻・日野富子の妹の良子を正室に迎えたのでした。
 
 
つまり、夫婦共に兄弟姉妹という濃い縁戚関係になったということです。

 
 

将軍職をめぐる争いから「応仁の乱」に

 

 
ところが、義視が兄の後を継いで将軍になると決めた矢先に、義政と富子の間に子供が産まれたのです。なんでこのタイミングでと思いますが、それが歴史のおもしろいところですね。
 
 
足利義政と日野富子の嫡男が足利義尚です。
彼の生涯は、こちらに書きました。早死にしています。参考にどうぞ。
  ↓
9代将軍・足利義尚とは?イケメン文化人だけど頭でっかちでがっかりな人生
 
 
義政の正室・日野富子は、当然「わが子」を次の将軍にと激押しです!
 
 
義視はその母の一念を恐れていたのですが、兄・義政は弟の自分を後継者にすると確約し、細川勝元を後見人にしてくれたのでした。
 
 
有力守護の細川勝元が後見人となれば安心かと思いますが、義政には困った欠点があったのです。
 
 
彼は、何をするにも優柔不断で、決断力に欠けた将軍だったのです。
 
 
しっかりせんかい!とイラっときます。それなら私がと、富子が出しゃばりたくなるのも分かる気がしますよ。ちなみに、日野富子は、子供が生まれるまで政治にはほとんど口出ししておりません。息子可愛さなのです。
 
 
そうして、義視の悲劇が始まったのでした。彼もまた、「応仁の乱」の渦に飲み込まれてしまうのです。「応仁の乱」は11年間もの間、グダグダした戦いを続け、京の都を火の海にした戦いです。
 
 
いろいろありましたが、最終的に9代将軍には義政の息子・当時9歳の義尚が就任し、義視は敗れて美濃へ逃れたのでした。
 
 
その後、亡命先の美濃で、義政と義視は和睦しています。

 

 

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息子が第10代室町幕府将軍に

 

 
1489年、9代将軍・義尚が近江の六角氏の戦いの遠征中に(長享・延徳の乱)、病気で亡くなりました。義尚は25歳で世継ぎがなかったので、次の将軍候補に、義視の息子が浮上してきたのです。
 
 
義視は、さっそく息子義材と共に上洛し、自分は出家して道存(どうぞん)と名乗り、家督を息子に譲る形をとりました。
 
 
そして、「10代将軍には自分の息子を!」と、兄の義政に頼んで承諾してもらったのです。義政は義視に対する負い目があったのかもしれませんね。そもそも約束破って争いの原因を作ったのは、義政ですから。
 
 
こうして、1490年、義視の息子義材が室町幕府第10代将軍になったのでした。(この少し前に、義政は病死しています)
 
 
息子はまだ若かったので、政治の実権は義視が握り、日野富子と次第に敵対していきました。
 
 
でも、義視が実権を握れたのは、それから1年足らずだったのです。1491年、足利義視は、兄・義政が亡くなった1年後の同じ日(1月7日)に、病気で亡くなったのでした。

 
 

おわりに


足利義視は、もともと幼児のころから僧侶として育てられた人でした。
 
 
将軍になりたいなど、始めはまったく思ってなかったでしょう。結局、あの優柔不断のダメ将軍・義政に振り回されて、波乱の人生を送ったのでしょう。
 
 
義政には、別のすごい才能があったのですけど。⇒それはこちらをどうぞ。
 
 
でも、やはり息子が将軍になれたのを1年でも見ることができて、よかったでしょうね。彼は、よいときに人生を終えられたともいえます。
 
 
なぜなら、義視の死後2年後に、息子の義材は日野富子と細川政元によって将軍職を追われることになるからです。(明応の政変)
 
 
室町幕府は、まだまだ安定には程遠かった・・・というか、安定しないまま終えてしまう政権なののでした。
 
 
応仁の乱の記事はこちらをどうぞ♪
    ↓
【応仁の乱」その後も含めて簡単にわかりやすくまとめた7つのポイント

 

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