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こんにちは!
 
 
足利尊氏が室町幕府を開いたとき、後醍醐天皇が吉野で南朝を開き、天皇が2人立つという異常事態が起こっていました。
 
 
その時期を、南北朝時代と言います。
 
 
その天皇2人体制を、なんとか解消したのが、3代将軍・足利義満だったのです。
 
 
足利尊氏の孫にあたる足利義満は、わずか12歳で即位しました。そして、成長すると将軍の力を強めるために、補佐役だった「管領」たちの力をそぐように努力した人なのです。
 
 
その足利義満が、建てた金閣寺は正式名は鹿苑寺(ろくおんじ)といい、銀閣寺(慈照寺)とともに、京都五山第二位の相国寺の塔頭寺院になっています。
 
 
今回は、キラキラ輝く金閣寺を足利義満が建てた理由についてお伝えします。

 
 

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黄金に輝く寺院は日本国王の威信を表すものだった?

 
 
足利義満は、将軍」を息子の義持(よしもち)にゆずった後も、当時の朝廷の最高職・太政大臣として政権をにぎり続けました。義満は次男えこひいきで偏愛したため、長男の義持とは険悪だったそうですよ。
 
 
外交は日明貿易に力を注ぎ、明の皇帝からは「日本国王」と認められていました。明の永楽帝から高く評価されていたのです。
 
 
そんな偉大な将軍が隠居する場として選んだのが京都市内北部に位置する北山でした。
 
 
その北山に建てた「金閣寺」は今も健在で、義満が保護した文化は北山文化と呼ばれました。
 
 
北文化はそれまでの伝統的な公家文化と新興の武家文化を融合させたところが、大きな特色になっています。また、勘合貿易や禅宗を通じて、明(中国)の影響も受けたものです。
 
 
義満は死後に朝廷から、「鹿苑院太上天皇」という称号を贈られています。
 
 
「太上天皇」というのは、一般的には上皇の位という最高位の称号です。天皇家と血縁関係になく武士にすぎなかった者としては、異例中の異例の取り立てでした。
 
 
これは義満と生前からそりが合わなかった息子の足利義持によって、朝廷に返上されましたが、義満が朝廷からも一目を置かれていたというのは間違いないでしょう。

 
 

金閣はなぜあんなにもギラギラ輝いているのだろう?

 

 
足利義満は将軍職を息子の義持に譲ってからも、太政大臣として政権を握っていたので、とても強い将軍という印象が強いです。
 
 
隠居した義満は、1397年、京都の北山に山荘(北山殿)を建てました。この金閣は義満の死後、舎利殿(しゃりでん)とよばれました。
 
 
金閣は外壁を金箔で覆っているため、陽の光が反射してキラキラ光り輝いています。
 
 
金閣寺の特徴は、3階建てでそれぞれの階の建築様式が異なるところですよ。
 
 
・1階は公家の神殿着造
・2階は武家の和洋の仏道形式
・3階は禅宗様

 
 

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金閣の写真を注意して見ると、1階に金箔が張られていませんね。
そして、2階と3階は、金箔外壁で輝いています。
 
 
公家の部分が地味で1番下、最上階は小さいながらも、床は黒塗りで天井と内壁は全面金箔という内装も豪華です。
 
 
なぜ、義満は隠居してからこんな権力を誇示するようなものを作ったのでしょう?
 
 
その理由は、室町幕府が政権として弱かったからと考えられます。
 
 
義満は将軍でありながら、管領を力で統べる軍事力をほとんど持っていませんでした。(細川氏などの四管領はかなりの軍事力を持っていました)
 
 
それでも、なんとか将軍として君臨できたのは、義満がかなり優れた政治家で、力が拮抗している管領の一族や管領間の仲介役をして頂点の座を維持していたからなのでした。
  
 つまり、金閣寺は強大な権力を持たなかった義満が、自分の権勢を誇示するためにあんな風に見た目に分かりやすい豪華さを示したといえるのです。

 

 

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金閣寺の黄金の鳳凰

 

 
金閣寺の屋根の中心には、黄金の鳳凰がいますよ。
 
 
鳳凰は中国神話の霊鳥・伝説の鳥です。とても縁起がよいものとされ、日本だけでなく東アジア全域にわたって、装飾やシンボル、美術品、物語などに登場しています。
 
 
この鳳凰を金閣の1番上、屋根に飾ることにより、義満は天皇や明の使節を招いたとき、さらに自分の権力を誇示したのでした。
 
 
金閣寺は「応仁の乱」で焼け落ち、再建後は、1950年の火災で焼失しています。現在の金閣寺は、1955年に再建されたものです。
 
 
そして、1987年には昭和の大修復が行われて、キラキラ輝く今の豪華な姿に修復されたのでした。今、私たちが見ている金閣は意外と新しいかったんですね。
 
 

北山文化

 

 
足利義満の時代に栄えた室町時代初期の文化を、「北山文化」と言います。金閣寺のあった地名(北山)からとっています。
 
 
京の都は、公家文化の本拠地でした。平安中期から室町時代にかけて、公家の文化は「国風文化」でした。その公家の文化と異質化を図るために、足利将軍家は、中国風の文化を発展させたのです。
 
 
ファッションや芸術は、時勢を反映しながら、振り子のように反対側に触れて発展していくことが多いです。
 
 
漢文学(大陸文化)が盛んだった平安初期から、かな文学が流行した国風文化へ、そして今度の、北山文化は、また明(大陸文化)の影響を受けています。
 
 
禅宗文化が普及し、京都五山などの臨済宗(禅宗)の寺院を官寺化しました。禅僧たちの手で作られた文学や芸術を、五山文学と呼びます。
 
 
また、『太平記』などの文学水墨画が盛んに描かれ、猿能楽が発展しました。世阿弥が「能楽」を完成させ、その奥義を『風姿花伝』にまとめています。
 

 
 

おわりに


歴代室町幕府の中でもっとも安定した力を持っていたのは、この第3代将軍・義満の時代でした。
 
 
彼は、圧倒的な軍事力を持たないという不利な条件にありながら、その政治力と外交力を生かしてバランスよく統治し、文化の発展にも貢献した将軍です。
 
 
室町時代の足利家の将軍の中では、やはり飛びぬけた名将軍だったといえるでしょう。
 

 

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