この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。


 
いち早く平家一門を都から落ちさせ、上洛した木曽義仲でしたが、京の都は彼が思っていたのとは大違いでした。
 
 
公家たちは奥歯にものが挟まったわけのわからない言い方をしたり、彼らを田舎者扱いしたりとし、義仲はまったく面白くありません。
 
 
また、当時の京の都は数年前からの飢饉で荒廃していたため、想像していたような豊かな町ではありませんでした。
 
 
食糧難の京の町には義仲が引き連れてきた数万の兵を養うだけの食べ物はなく、兵の中には略奪を企てるものも多くいました。そんな状況だったので、義仲は朝廷から庶民まで、都人にまったく人気がありませんでした。
 
 
そんな彼にずっと従っていた彼の側近の中には、幼いころから家族のように暮らしていた重臣がいました。
 
 
今回は、義仲の臣下、樋口兼光・今井兼平・巴のについてお伝えします。

 

スポンサーリンク

中原兼遠の子供たち

 

 
木曽義仲は、2歳頃に実兄と対立した父を討たれ命を狙われました。
 
 
そのとき、義仲を木曽にかくまう手助けをしたのが、以前お伝えした斎藤実盛です。
 
 
そして、彼を引き取ってひそかに養育した人物が、木曽谷の豪族・中原兼遠(なかはらのかねとお)でした。『平家物語』では、中原は平家の義仲を引き渡せという命に従わず、自分の子供たちと一緒に育てたと伝えられています。
 
 
後に木曽義仲の側近になる、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、巴(ともえ)は、この中原兼遠の子供たちと伝わります。
 
 
中原兼遠は義仲が平家追討の兵を挙げたとき、仏門に入って円光と名乗りました。

 
 

(1)樋口次郎兼光

 

 
樋口兼光は中原兼遠の次男で、義仲と兄弟のように育てられました。
 
 
後に、義仲四天王の1人となり、『平家物語』では「実盛の最期」で老武者・実盛について語ります。
 
 
平家が都落ちした後、木曽義仲の軍は、戦うことなく入京しました。
 
 
彼らはしばらく都で過ごすしましたが、京の公家たちとの間で争いが起こります。義仲をうとましく思った後白河法皇は、とうとう源頼朝と手を結んで、義仲を京から追い出そうと企てました。
 
 
樋口兼光は、このとき義仲から離反した新宮十郎行家を討つため、河内方面に向かっているところでした。彼は、都で戦が起こったと知らせを受け、急遽引き返しました。
 
 
しかし、時すでに遅く都には源義経の軍が押し寄せ、木曽義仲は「粟津(あわづ)の戦い」で討たれ、樋口の弟の今井兼平も自害してしまいました。
 
 
都への道中に、主君と弟の死を知らされた樋口は、「自分はこのまま都へ行って討死するが、お前たちは僧になって主君の菩提をともなってくれ」といいます。
 
 最初500騎ほどいた味方は次々と去っていき、都の南の鳥羽にさしかかるころには、わずか20騎ほどになっていました。
 
 
当時の都の守りは、源義経がつとめていました。
 
 
樋口の軍は源義経軍と羅城門(十条)のあたりで対峙しましたが、多勢に無勢で戦いにはならず、樋口はここで降伏したのでした。
 
 
同じ「源氏」という縁もあって、源義経は朝廷に樋口兼光の助命嘆願をしました。しかし、義仲とその軍は公家たちにたいへん嫌われていたので、聞き入れられませんでした。
 
 
1184年、樋口兼光は、義仲、弟の今井兼平ら5人の首の引き回しの際、その供をつとめたいと願い出ました。その最期の願いは聞き入れられ、彼は藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従ったのです。
 
 
そして、樋口兼光はその翌日に首を斬られたのでした。(『平家物語』より)

 
 

スポンサーリンク

(2)今井兼平と巴(ともえ)

 

 
今井四郎兼平は、中原兼遠の四男です。
 
 
今井兼平も義仲四天王の1人、『平家物語』の「木曽殿最期」で、とてもかっこいい最期を遂げる「日本一の剛の者」です。
 
 
彼は義仲に付き添って、数多くの戦いに武将として参加しました。
 
 
「般若野(はんにゃの)の戦い」「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」「篠原の戦い」などで大活躍し平家軍を翻弄した大将です。
 
 
都を追われた木曽義仲は、「宇治川の戦い」源範頼・源義経率いる鎌倉軍に破れ、近江の勢田で戦っていた今井兼平も敗走したと知らせを受けます。
 
 
義仲はいったん都に戻りましたが、すでに迫っていた義経の軍に六条河原で遭遇、なんとか逃げましたが主従7騎になってしまいます。そうして大津(近江)の打出の浜でようやく最も親しい家臣・今井兼平と再会できました。
 
 
そこでなんとか300騎集めましたが、敵は6000騎、多勢に無勢でやがて5騎にまで追い詰められました。(「粟津の戦い」)
 
 
その5騎の中には、兼平のほかその妹の巴(ともえ)も残っていました
 
 
彼女は義仲の身の回りの世話をする下女(愛妾)で色白の美女でしたが、弓や薙刀の心得のある女武者でした。
 
 
このとき義仲は最期の戦い(討死するとき)に女を連れていたのでは外聞が悪いと言い、巴(ともえ)に落ち延びよと命じます。
 
 
巴は始めはしぶっていましたが何度も義仲にせかされたため、それではと、走り去る前に、「木曾殿(義仲)に、最期の軍して見せ奉らん」といい、怪力で名高い・鎌倉方の御田八郎師重の首に一瞬で飛びついて、それを素手でねじ切って捨ててしまったのでした!
 
 
その後、今井兼平は木曽義仲と2騎になりました。
 
 
兼平は主君の首を敵に斬らせまいと義仲に自害をすすめ、その間の時間稼ぎに敵陣に突入します。
 
 
しかし、兼平の身を思って振り返った義仲は、敵の矢に当たり、深手を負ったところで石田次郎為久に打ち取られました。
 
 
それを知った今井兼平はもはやこれまでと思い、太刀の先を口の中に含んだまま馬上から飛び降て、太刀に貫かれて自害しました。
 
 
そのとき言った彼の言葉が、教科書でお馴染みのあの名セリフ。
      ↓
「これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」
(これをご覧あれ、東国の武士たちよ。日本一のつわものの自害の手本だ!)
 
 
あっぱれな最期でした・・・
義仲は31歳、兼平は33歳でした。(『平家物語』より)

 

【関連記事】



 

スポンサーリンク