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こんにちは。
いち早く平家一門を都から落ちさせ、無血入城を果たした木曽義仲でしたが、京の都は彼が思っていたのとは大違いでした。
公家たちは、わけのわからん言葉を使うわ、奥歯にものが挟まった言い方をするわ、田舎もん扱いされるわで、義仲は面白くありません。
また、当時の京の都は数年前から飢饉に見舞われていたため、想像していたような豊かな町ではありませんでした。
食糧難の京の町には、義仲が引き連れてきた数万の兵を養うだけの食べ物がなく、兵の中には略奪を企てるものも多くいました。そんな状況だったので、義仲は朝廷から庶民まで、都人にまったく人気がなかったのでした。
そんな彼にずっと従っていた彼の側近の中には、幼いころから家族として暮らし、最期の最期まで共にいた乳兄弟がいました。
今回は、義仲の乳兄弟、樋口兼光・今井兼平・巴の3兄妹についてお伝えします。
中原兼遠の子供たち
木曽義仲は、2歳頃に実兄と対立した父を討たれ、命を狙われました。
そのとき、義仲を木曽にかくまう手助けをしたのが、以前お伝えした斎藤実盛です。
そして、彼を引き取ってひそかに養育した人物が、木曽谷の豪族・中原兼遠(なかはらのかねとお)だったのでした。『平家物語』では、中原は平家の義仲を引き渡せという命に従わず、自分の子供たちと一緒に育てたと伝えられています。
後に木曽義仲の側近中の側近、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、巴は、この中原兼遠の子供たちなのでした。
中原兼遠は、義仲が平家追討の兵を挙げたとき、仏門に入って円光と名乗りました。
(1)樋口次郎兼光
樋口兼光は、中原兼遠の次男で、義仲と兄弟同然に育てられました。
後に、義仲四天王の1人となり、『平家物語』では「実盛の最期」で老武者・実盛について語ります。
平家が都落ちした後、木曽義仲の軍は、戦うことなく入京しました。
彼らはしばらく都で過ごすことになりましたが、京の公家たちとの間で争いが起こります。そして、後白河法皇は源頼朝と手を結んで、義仲を京から追い出そうと企てました。
樋口兼光は、このとき義仲から離反した新宮十郎行家を討つため、河内方面に向かっていたのです。彼は、都で戦が起こったという知らせを受け、急ぎ引き返しました。
しかし、時すでに遅く、都には源義経の軍が押し寄せ、木曽義仲は「粟津の戦い」で討たれ、樋口の弟の今井兼平も自害してしまいました。
都への道中に、主君と弟の死を知らされた樋口は、「自分はこのまま都へ行って討死するが、お前たちは僧になって主君の菩提をともなってくれ」といいます。
最初、500騎ほどいた味方は次々と去っていき、都の南の鳥羽にさしかかるころには、わずか20騎ほどになっていました。
当時の都の守りは、源義経がつとめていました。
樋口の軍は、源義経軍と羅城門(十条)のあたりで対峙しましたが、多勢に無勢で戦いにはならず、樋口はここで降伏したのでした。
同じ「源氏」という縁もあって、源義経は朝廷に樋口兼光の助命嘆願をしました。でも、義仲とその軍は、公家たちにたいへん嫌われていたので、それは聞き入れられませんでした。
1184年、樋口兼光は、義仲、弟の今井兼平ら5人の首の引き回しの際、その供をつとめたいと願い出ました。その最期の願いは聞き入れられ、彼は藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従ったのです。
そして、樋口兼光はその翌日に首を斬られたのでした。(『平家物語』より)
(2)今井四郎兼平・巴(ともえ)
今井四郎兼平は、中原兼遠の四男です。
今井兼平も義仲四天王の1人、『平家物語』の「木曽殿最期」で、めちゃくちゃかっこいい最期を遂げる「日本一の剛の者」です。
彼は義仲に付き添って、数多くの戦いに武将として参加しました。
「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」はもちろんのこと、その前哨戦でも、たった5千騎で10万の平家軍を翻弄したのです。
都を追われた木曽義仲は、「宇治川の戦い」で源範頼・源義経率いる鎌倉軍に破れ、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びました。
そして、近江(滋賀県)の「粟津の戦い」でも、多勢に無勢で敗走するしかなく、とうとう主従五騎のみになってしまったのでした。
その五騎中に、まだ兼平とその妹の巴(ともえ)も残っていました。
このとき義仲は、最期の戦い(討死するとき)に女を連れていたのでは外聞が悪いと言位い、巴(ともえ)に逃げろと命じます。
巴は始めはしぶっていましたが、何度も義仲にせかされたため、それではと、走り去る前に、「木曾殿(義仲)に、最期の軍して見せ奉らん」といい、怪力で名高い・鎌倉方の御田八郎師重の首に一瞬で飛びついて、それを素手でねじ切って捨ててしまったのでした!
巴御前といえば、色白キューティクルヘアの美女設定のはずです。(←『平家物語』)
本当ならなら、すごくかっこいい女武士ですよ。(フィクションですけど)
そんな巴と兄の今井兼平の最期は、こちらに詳しく書きました♪
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『平家物語』の「木曽殿最期」は、木曽義仲より中原兄妹のほうがかっこいいです。
兄の今井兼平は義仲が討たれたのを見て、もはやこれまでと思い、太刀の先を口の中に含んだまま馬上から飛び降て、太刀に貫かれて自害しました。
そのとき言った彼の言葉が、古文の教科書でお馴染みのあの名セリフ!
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「これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」
(これをご覧あれ、東国の武士たちよ。日本一のつわものの自害の手本だ!)
あっぱれな最期でした・・・
義仲・享年31歳、兼平・享年33歳です。
でも、これは『平家物語』のお話なので、史実とは限りませんよ。
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