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こんにちは。
 
今回は、四国の覇者・長宗我部元親について。
 
 
長宗我部(ちょうそかべ)という変わった長い姓ですが、数年前の「戦国バサラ」ブームで一気に名前が知れ渡った武将です。
 
 
あのキャラクターは漢気あふれた感じでかっこよかったです。

 
 

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長曾我部元親の簡単な経歴

 

 
・生誕:1538年
・死没:1599年 61歳

 
 
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は「岡豊城(おこうじょう)」の城主・長宗我部国親の息子として土佐に生まれました。
 
 
元親は幼いころはとても大人しい色白の美少年だったそうです。その上、20歳を過ぎても初陣に出ていなかったことから、「姫若子(ひめわかこ)」と家臣たちにあなどられていたとも伝わります。
 
 
でも、22歳で初陣に出陣すると、戦場では鬼人のごとく槍を振り回し、一転して「鬼若子」と呼ばれるようになったのです。初陣の後しばらくすると父の国親が亡くなり、彼は22歳の若さで長曾我部の当主になりました。
 
 
元親は「一領具足」という半農半兵(普段は田畑を耕し、いざという時は兵士として戦う)の仕組みを使って勢力を拡大、四国各地に攻め入り1585年には四国を統一しました。

 
 

四国統一を果たすも豊臣秀吉に降伏

 

 
長曾我部元親がようやく四国を制圧したその年、強大な力になった長宗我部家を抑えようと豊臣秀吉が12万の大軍を率いて四国征伐に乗り出しました。
 
 
四国に上陸したしっかり統率のとれた秀吉の軍に対し、元親の軍は半農半兵の民の兵でした。その上、数の上でも不利でした。
 
 
そうして、元親は秀吉に降参し土佐以外の領土を奪われて、それ以降は土佐一国の領主として秀吉に仕えることになったのです。

 
 

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長男長曾我部信親の戦死

 

 
1586年、秀吉の九州攻めに元親も参加しましたが、この戦いで長男の長宗我部信親が命を落としてしまいました。享年22歳です。
 
 
信親は大変な美男子で、一度に8人の兵を斬ることができたといわれるほどの強者でした。元親が大変将来を期待していた息子だったのです。
 
 
息子・信親の遺体をみた元親は、ショックのあまり泣き崩れたといわれます。
 
 
最愛の嫡男の死が元親から覇気を奪ってしまい、その後の長宗我部家の運命を大きく変えてしまうことになったのです。

 
 

嫡男・信親の死後、頑固親父に

 

 
嫡男の信親がいたころ、元親は家臣の話にきちんと耳を傾けるバランスの取れた人物で、皆から信頼された城主でした。
 
 
ところが、信親を失ってからの元親は一転して周りの人々の意見を聞かなくなり、一部の家臣の反対を押し切って次男、三男を抑えて四男の盛親に無理やり家督相続させました。
 
 
この理由ははっきりとはわかっていないのですが、それからの元親はふさぎこむことが多くなり、当主として精彩を欠いたまま1599年に京都・伏見で亡くなります。享年61歳でした。

 
 

「大坂夏の陣」で敗北し長曾我部家は滅亡

 

 
元親の死後、長宗我部家の当主となった長宗我部盛親は「大阪の陣」で豊臣側につき敗北しました。
 
 
そして、彼とその息子たちはすべて斬首になったため、長宗我部家は滅亡してしまいます。
 
 
でも、直系子孫はこれで失われましたが、養子に出ていた一族が血をつなぎ、現在も子孫は健在です。
 
 

長宗我部元親の「名言」

 

 

長宗我部元親の「名言」をご紹介します。
 
「一芸に熟達せよ 多芸を欲張るものは巧みならず」
 
 
1つの物事を始めたら極めるために徹底して継続することが大切だという教えです。
 
 
槍、刀、弓、など武士が習得すべき武器や技はたくさんあります。でも、その全てを一気に身につけようとしても全てが中途半端になってしまう、1つの技に特別秀でる者のほうが優れていて実戦で役に立つという意味の言葉です。
 
 
古今東西、一流と言われる人はまず1つのことを選択し、集中して物事に取り組むという方法を徹底しています。
 
 
そして、全てのものに共通した上達の原理やコツが身につくと「物事を極める方法」が体得でき、別の事に取り組むときにも応用が利いて効率的に極める事ができるのです。
 
 
1つの事を極める力を得ると、他の分野を攻略するときにも必ず役立つということです。
 
 
まずは、自分が成果を出しやすい分野を選択し、徹底して集中・継続することの大切さは、現代社会でも十分通用する普遍的な考え方ですね。

 
 

長宗我部元親の簡単年表

 

・1539年(1歳)
土佐で誕生
 
・1160年(22歳)
初陣「長浜の戦い」で勝利。
父が急死し長宗我部家当主に。
 
・1563年(25歳)
美濃の斎藤利三の娘と結婚。
 
・1574年(36歳)
土佐を平定する
 
・1582年(44歳)
織田信長と対立。
「本能寺の変」が起こる。
 
・1585年(47歳)
四国全土をほぼ統一。
豊臣秀吉の四国攻め→敗退。
土佐一国のみの主に。
 
・1586年(48歳)
「戸次川の戦い」で嫡男の信親戦死。
 
・1597年(59歳)
「長宗我部元親百箇条 」制定。
 
・1599年(61歳)
京都伏見で死没。

 
 
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