この記事を読むのに必要な時間は約 6 分です。


 
松平竹千代

松平元信

松平元康

松平家康

徳川家康

 
 
徳川家康は、このように生涯に4度名前を変えています。
 
 
当時の武家社会では名前を変えるのは普通のことでしたが、彼は姓も変えています。
 
 
名を変えるときは、彼自身の生き方を変えるきっかけがあったはずです。どんなきっかけがあったか見ていきましょう。

 
 

スポンサーリンク

(1)松平竹千代※生まれたときの名前(幼名)

 

 
1542年12月26日、家康は三河岡崎城主・松平広忠の息子として生まれました。
 
 
生まれたときの名前、幼名は「竹千代」です。
 
 
父の松平広忠公が命名したそうですが『烈朝系譜』には父・広忠の幼名も「竹千代」と書かれています。(『松源大譜系』などは異なるので諸説あり)
 
 
「竹千代」という幼名は、家康だけでなくそれ以降、徳川将軍家でたびたび世子の幼名につけられています。
 
 
家康は苦労人とよくいわれますが、彼は6歳の時に織田家へ、その後今川家へと人質として送られました。
 
 
そして、今川家で人質として暮らしているとき、元服(成人)を迎えます。

 
 

(2)松平元信※「元服」して一人前の名前になった

 

 
家康は、今川義元の元で14歳で元服しました。
 
 
諱(いみな)は、今川義元の「元」の字をもらい元信、「松平元信」と名を変えました。
 
 
家康は今、川義元には気に入られていたとも伝わります。

 
 

スポンサーリンク

(3)松平元康※わけあって2年ほどで改名

 
 
今川義元から諱(いみな)をもらった家康でしたが、この名は家康が16歳ごろ、再び改名されることになります。
 
 
その理由は、「元信」という名の「信」の字が、当時、今川家が敵対していた織田信長の名にもあったからです。
 
 
そうして家康は、祖父・松平清康の「康」の字をとって「松平元康」と名を変えました。

 
 

(4)松平家康※今川家からの独立宣言

 

 
1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれました。
 
 
それ以降、今川家は急速に衰退していきます。
 
 
22歳になっていた家康は、これを機に名を「松平家康」と自分で変えました。
 
 
今川義元からもらった「元」の字を捨てることで、今川家からの独立を示したのです。
 
 
「家」という字は源頼朝の曾祖父・源義家から取ったといわれます。

 
 

(5)徳川家康※朝廷に認められるため改姓まで

 

 
家康は24歳のとき、三河守に任じられました。
 
 
彼は三河の国主に任じてもらいたく、まずは松平氏の祖・世良田義季が名乗った「得川氏」がもとは「源氏」の家系だったので、「徳川」に改姓したいと朝廷に願い出ました。
 
 
しかし、朝廷は家康の国主への願いを認めません。
 
 
その理由は、家系の氏素性が明確でなく先祖に国主になった者がいるといえないというものでした。
 
 
そこで家康は、公家の近衛前久と吉田兼右に依頼し、きちんとした家系図を探してもらいました。
 
 
すると、彼らはうまい具合に家康の家系がわかる旧記を見つけてくれたのです。(タイミングよすぎて真偽不明)
 
 
その旧記には、家康の祖先の新田氏系の「得川氏」が「藤原」の姓を名乗ったことがある、もとは「源氏」の家系でその総領家は途中で「藤原氏」になった例もあったと記されていました。
 
 
そうして、家康はなんとか彼個人のみという条件付きで改姓することが認められ、従五位下・三河守に任じられたのでした。
 
 
(その後、家康の息子、二代将軍秀忠と御三家の祖となる9男義直、10男頼宣、1男頼房の4人のみが「徳川」を名乗れました)
 
 
出自不明の一豪族だった家康は、それ以降「源氏」と「藤原氏」を肩書のように使い分けるようになりました。
 
 
つまり、家康が名前だけでなく姓も変えたのは、己の出自を朝廷に認めてもらうためだったということです。

 
 

スポンサーリンク