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どういう存在なのかよく知られていないのに、なぜか気になる「忍者」。
そして、忍者といえば「伊賀」と「甲賀」。
今回は、伊賀の山合いで暮らしていた伊賀衆(伊賀忍者)の首領の1人・百地三太夫(ももちさんだゆう)についてお伝えします。
謎の多い伝説の忍者・百地三太夫
百地三太夫(ももちさんだゆう)は1512年、百地清右衛門の嫡男として名張中村(三重)で生まれたと伝わります。
本名は百地丹波(ももちたんば)といい、伊賀忍者の上忍の中でも、最も有力な伊賀忍者組織全体を統率していた「伊賀三上忍」の3人のうちの1人でした。
三上忍の家は百地家・服部家・藤林家と決まっていました。服部家は、あの服部半蔵を輩出した家です。
百地三太夫の実際の姿については、なにぶん「忍び」ということもあり、なかなか伝わっていません。ただ、伊賀に今も残る広大な屋敷跡を見ることで、その権力の大きさが分かります。
彼が歴史の表舞台に立ったのは、織田信長の残念な次男・信雄の伊賀侵攻があったからです。
第一次天正伊賀の乱で信雄に勝利
1578年、織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)が信長に無断で勝手に伊賀を侵攻した事件が起こりました。
このとき「伊賀上忍三家」は、徹底抗戦することを誓います。
伊賀衆は団結して奇襲・夜襲・ゲリラ戦、得意の火薬を使ったかく乱作戦などを駆使し、約1万の信雄軍を追い散らしました。
信雄が本気で死ぬと思うほど追いつめられた戦いでした。そして、後でそのことを知った信長からめちゃくちゃ怒られた戦いでした。
第二次天正伊賀の乱で信長に敗北
1581年、第一次天正伊賀の乱から2年後、伊賀衆の勢力に危険を感じた織田信長が、今度は自ら軍を率いて伊賀に攻め込みました。
約4万4千もの兵を動員して6箇所から大攻撃を仕掛けたのです。さすがの忍者組織も多勢に無勢でどうしようもなく、2週間ほどで伊賀全土が焦土と化したといわれます。
伊賀衆を絶滅させようとしたのかと思えるほどです。なで斬りですね。とにかく徹底的に攻撃されました。
伊賀衆の生き残りは、この後、ちりじりになってしまいました。
「本能寺の変」の前年の出来事でした。
百地三太夫はどうなった?
「天正伊賀の乱」のとき、百地三太夫はどうしていたでしょう?
もちろん彼は、伊賀衆を率いて戦っていました。でも、圧倒的な織田の兵力の前に力尽き、とうとう戦場で倒れたと伝わります。
でも、存命したという説もあるんですよ。
さらに、百地三太夫は、実は百地丹波と同一人物でなく、丹波の孫だったという説もあります。
どうやら「百地三太夫」という名前が歌舞伎役者のように、代々襲名していく「名」だったようなのです。
だから、史料が残っていても誰のことなのか識別しにくいのでした。
確かに存在していたのに謎に包まれた人物ですね。
でも、百地三太夫の屋敷跡は、今も伊賀に残っていて観光地になっています。ハイキングコースのような山道ですが・・・
「天正伊賀の乱」は、江戸時代の学者・菊岡如幻(きくおかにょげん)が「伊乱記」という作品に残しています。主に伝わる伊賀伝説をまとめたものなので、史実どおりとはいきませんが参考になるでしょう。
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