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こんにちは。
 
「関ケ原の戦い」で西軍の総大将だった毛利輝元。
彼は、戦国大名・毛利元就(もとなり)の後継で孫にあたる人物です。
 
 
でも、祖父と異なり、残念な藩主だったと評価されることもあります。
 
 
その大きな原因は「関ケ原の戦い」で総大将だったにもかかわらず「動かなかった」のでリーダーシップがないととらえられるからなのですが、ある意味この毛利の動きが「関ケ原の戦い」に大きな影響を与えたのも確かです。
 
 
豊臣政権下で「大老」の筆頭でもあった毛利輝元は、どのような人だったのでしょうか?
 
 
また、豊臣軍と徳川軍が再びぶつかった大坂の陣において、輝元はどのように行動したのかについても気になりますよね。

 
 

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毛利輝元の簡単な経歴

 

【出典元:Wikipedia:毛利輝元】

 
生誕:1553年
死没:1625年 享年73歳

 
 
毛利利輝元(もうりてるもと)は、1553年に毛利隆元の嫡男として誕生しました。幼名は幸鶴丸といいます。母は隆元の正室の尾崎局(内藤興盛の娘で、大内義隆の養女)でした。
 
 
父の毛利隆元が出陣先で急死したため、嫡男だった彼が1563年に毛利家当主となりました。
 
 
でも、当時輝元はわずか11歳だったので、毛利家の実権はそれまでどおり祖父の毛利元就が握っていました。
 
 
1565年に元服すると、13代将軍の足利義輝から「輝」の一字を賜って「毛利輝元」と名乗りました。
 
 
初陣は「月山富田城の戦い」です。
 
 
祖父が亡くなってから親政を始めましたが、織田信長と対立し不利な立場になります。
 
 
毛利元就は3人の息子を中国地方の領主にしています。後継者の孫(長男の息子)毛利輝元、吉川家に養子に出した次男の吉川元春、小早川家に養子に出した三男の小早川隆景です。
 
 
叔父の小早川隆景は、輝元の幼少時代の教育係でもありました。この叔父に輝元はかなり厳しくきちんとしつけられたそうです。
 
 
2人の叔父に支えられて、若い輝元は毛利家を守っていったのでした。
 
 
吉川家小早川家はともに「川」の字がつくことから、「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれるようになります。
 
 
1582年、豊臣秀吉が大軍を率いて中国制圧に乗り込んできましたが、ちょうとそのとき「本能寺の変」が起こりました。秀吉は急いで輝元と和解し、近畿にへと軍を引き返しました。
 
 
その後、豊臣政権いなると、輝元はその臣下となり信頼されるようになって重要な役職を任されるようになっていきました。

 
 

関ケ原の戦いで西軍の総大将に!

 

 
秀吉亡き後、1600年に「関ケ原の戦い」が起こりました。
 
 
この戦いで、毛利輝元は西軍代表の石田三成から西軍の総大将に擁立されました。
 
 
彼自身は大坂城に入城したまま、戦場には養子の毛利秀元と叔父の吉川広家、家臣の安国寺恵瓊をつかわしました。
 
 
でも、吉川広家は東軍側と内通していて、毛利は内部で指揮系統が分裂してしまっていたので、「関ケ原の戦い」で毛利軍は、直接東軍と刃を交えることはなかったのです。
 
 
毛利輝元は総大将で、毛利軍は約2万もの大軍でした。もしも毛利隊が動いていれば、ものすごく西軍の士気が挙がって戦局が変わっていたのは間違いなかったでしょう。
 
 
実際には、彼はまったく動かず、西軍の壊滅が決定的になると、徳川家康の「領土は安堵する」という言葉を信じて、自ら大坂城を東軍に明け渡しました。
 
 
でも、最終的に「関ヶ原の戦い」の後、輝元が西軍の総大将を務めたことから、毛利家は所領を120万石から37万石へと大きく減らされてしまったのです。
 
 
「関ヶ原の戦い」のときの毛利輝元の姿勢は、とても消極的で弱腰のようにも見えます。
 
 
ですが、輝元は戦国大名とは違う代替わりした大将でした。戦国時代の大名とは考え方が違っていたのでしょう。

 
 

「大坂の陣」における毛利輝元の動向

 

 
「大坂冬の陣」が起こると、輝元は従兄弟の内藤元盛を「佐野道可」と名乗らせて大坂城に派遣しました。
 
 
ところが、翌1615年の「大阪夏の陣」で、この佐野道可こと内藤元盛を自害に追い込み、毛利家を守っています。
 
 
そうして、常に毛利家を第一に守りながら、毛利輝元は1625年4月27日に萩の四本松邸で病死しました。享年73です。

 
 

長州藩主として有能だったという評価も

 

 
「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将を務めたものの、戦いに積極的に参加しなかったことによって所領を大きく減らした毛利輝元は、しばしば「無能」と評価されることがあります。
 
 
その一方で、輝元には内政家として有能だった側面があります。
 
 
家康に領地を取り上げられ「120万石から37万石に」まで減らされてしまった長州藩・毛利家の財政は、それから相当厳しいものになりました。
 
 
でも、毛利輝元は質素倹約や新田開発を奨励して、石高をすぐに10万石以上も増やし50万石に乗せることに成功しています。
 
 
その後も長州藩の石高はどんどん右肩上がりに増え続け、江戸幕府を驚かせたそうです。幕末には100万石を越えていたともいわれますよ。
 
 
毛利輝元は内政・領地経営の面では、長期視点に立って計画を立て実行できる指導者だったのです。そういう点では、十分「有能」と評価できる大名でしょう。

 
 

毛利輝元の簡単年表

 

・1553年(0歳)
吉田郡山城で毛利隆元の嫡男として誕生。
 
・1565年(12歳)
元服、輝元と改名。
初陣「月山富田城の戦い」
 
・1571年(18歳)
祖父・元就が死去。
親政開始。
 
・1572年
従五位下を叙せられる。
 
・1582年(29歳)
豊臣秀吉と和睦→秀吉に臣従する
 
・1588年(35歳)
従四位下・参議に任じられる。
 
・1595年(42歳)
従三位・権中納言・五大老の1人に任命される。
 
・1600年(47歳)
「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に就任し敗北→大幅減封
 
・1604年(51歳)
萩城の築城を開始。
 
・1623年(70歳)
正式に隠居。
・1625年(72歳)
萩の四本松邸で病死。

 
 

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