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上杉謙信は、戦国武将の中でもたいへん人気のある人です。かく言う、私も大好きな武将様なのでした。
 
 
「越後の龍」「軍神」などのあだ名も、すごくかっこいいし、武田信玄との龍虎の争い「川中島の合戦」にときめきます。
 
 
上杉謙信が、どんな人だったのかその特徴や謙信亡き後の上杉家ついて紹介します!

 
 

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上杉謙信はこんな人!

 
上杉謙信(1530年~1578年)は、越後国(新潟県)長尾為景の次男として生まれました。長尾氏は越後守護職の上杉氏を補佐する守護代の役をもつ家柄です。
 
 
謙信が生まれた当時の越後は、内乱が続いていました。そんな不安定な政情の中、謙信は14歳で初陣を勝利してから、負け知らずの武勇を飾っています。
 
そして、19歳で長尾家の家督を継ぎ、32歳のとき関東管領の上杉憲政から上杉家を相続したのでした。
 
その後、謙信は内乱を治めて越後を統一します。軍神と言われるのも納得の見事な武勲です。

 
 

毘沙門天のご加護を!

 

 
上杉謙信といえば、「毘沙門天のご加護を」ですね。
 
 
謙信が戦いのときに用いた旗印にも、毘沙門天の「毘」の一文字がありました。
 
 
謙信は、自分は戦の神・毘沙門天の生まれ変わりだと言っていたそうです。本当に思っていたのか、そう思いたかったのか・・・。
 
 
戦場では毘沙門天の加護の下、自分には敵の矢は当たらないと信じ、奇襲のときは真っ先に飛び出していったそうですよ。
 
 
ま、それぐらい無鉄砲な戦好きだったということかもしれませんね。

 
 

教養人だけどめっちゃ酒好きだった

 

 
上杉謙信は教養人で、書道・茶道・和歌に親しみ、「源氏物語」(紫式部・著)を愛読していたと言われます。
 
 
琵琶の名手でもあり、戦場に持っていくこともあったそうですよ。かっこいいですね。
 
 
戦上手なイメージのある人ですが、文武両道の趣味人だったと分かります。
 
 
上杉謙信といえば、酒をこよなく愛した武将として知られます。
 
 
彼は大勢で騒ぐような飲み方をするのではなく、「酒」に「梅干」か「味噌」をおつまみにして、1人飲みをするのが好きだったそうです。それも、かなり豪快な飲み方をしていたそうですよ。
 
 
「馬上杯」と呼ばれる珍しい直径12㎝もの大きさの盃で、がぶがぶ飲んでいたそうです。
 
 
死因は厠(かわや)へ行ったときに倒れて、そのまま昏睡状態になり5日ぐらいに亡くなったそうです。
 
 
脳溢血ですね。酒と塩分の相乗効果でかなりの高血圧だったのでしょう。つきつめると深酒と塩分の取り過ぎが突然死の原因だったといわれます。
 

 

上杉家の行方

 
 
上杉謙信は、彼こそが最強武将という人も多い優れた武将でした。武田信玄とのライバル対決「川中島の合戦」は、非常に有名ですよね。
 
 
でも、彼は戦には強くても、上杉家の領土を広げることはできませんでした。
 
 
その理由は、義をとおすことを第一に考え領土欲がなかったためだといれますが、実際は「兵農分離」ができていない越後の統治の仕組みにあったと思われます。
 
 
天下を狙う織田信長との関係は、どうだったのでしょう。信長からみれば、謙信も信玄も恐れていた武将の1人だったと思われます。
 
 
武田信玄は志半ばで病に倒れ、家督をついだ武田勝頼の代のとき織田信長に滅ぼされました。(長篠の戦い)
 
 
武田家はその後滅亡しましたが、上杉家は謙信亡き後、どうなったのでしょう。
 
 
上杉謙信は信長と直接対決はしませんでしたが、柴田勝家率いる「織田軍」とは戦っています。
 
 
それは「本能寺の変」の6年前のことで、上杉謙信の最後の戦いとなる「手取川の戦い」でした。
 
「手取川の戦い」は、上杉軍の圧勝に終わりました。その理由は、織田軍を率いていた柴田勝家と援軍に駆け付けた羽柴秀吉とが仲たがいして秀吉が勝手に戦線離脱したことや、雨で川が超絶増水していたため織田軍が思うように動けなかったことなどが重なったのです。
 
 
上杉謙信お得意の奇襲作戦で、織田軍をフルボッコした戦いなのでした!
 
 
そして、その2年後、織田信長との次の戦に備えていた上杉謙信は、49歳で急死(病死)してしまいます。
 
 
謙信亡き後、子供(養子)の間で家督争いが起こり内乱になりそうだったのですが、織田信長が「本能寺の変」で討たれて外敵に攻められることがなかったため、何とか乗り切れたのでした。
 
 
その後、上杉家は豊臣家と縁組したことから、関ケ原で西軍につき敗北します。
 
 
「関ケ原の戦い」で東軍が勝利したとき、上杉家は西軍に味方したことから米沢藩30万石に藩替えさせられました。それでも上杉家は細々と堅実に努力し、藩を立て直して明治維新まで続きました。現代にもその子孫が存続しています。

 
 

実は、女性だった?

 

 
上杉謙信は、謎の多い人物です。
 
 
中でも、もっとも「本当なの?と」言いたくなるのが、この上杉謙信「女性説」です。
 
 
これは、個人的に信憑性は低すぎると思うのですが、このような俗説が出てきた理由は・・・
 
 
★ 一生独身で妻を娶らなかったから!
 
これにつきます。
 
戦国大名は、「家」の存続のため、後継ぎを作るために、多くの妻(正室+側室たち)を娶って自分の子を産ませるのが、務めでもありました。
 
 
でも、謙信は、まったく女性に興味がありません。
4人の子供は、全員(景勝・景虎・義春・国清)養子でした。
 
 
妻帯しなかったわけは、次の4つが考えられます。
 
(1)毘沙門天のご加護を第一義と考えて、生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたから
(2)敵将の娘と恋に落ちたが、反対され引き裂かれて立ち直れなかったから
(3)身内の女性が強すぎて、女性というものに幻滅したから
(4)男性にしか興味がなかったから
 
 
う~~ん、個人的には、(1)と(4)は本当のことで、(2)と(3)はこじつけかなと思います。
 
 
戦国時代は、井伊直虎のように、たとえつなぎであったとしても、女性が家督を継ぐことはあったので、もしも女性だったら、隠す必要はないと思うんですよね。
 
 
やはり、これは冗談めいた俗説だと思います。
 
 
もともとこのとんでも説を言い出したのは、作家の八切止夫といわれます。
 
 
日本に来ていた外国人がフェリペ2世に宛てた報告書の中で「上杉景勝は叔母が開発した佐渡の金を持っている」と記したものが、スペインで見つかったというのです。
 
 
景勝は謙信の姉の子で、謙信に他に姉妹はなく、文中の叔母というのが謙信に当たるのではないかというのです。
 
でも、その報告書が出回ってないんですよね。そしてスペイン語で叔父と叔母はスペルが似ていて書き間違いか読み間違いだったともじゅうぶん考えられるのです。
 
 
その報告書が出回っていないのが尚更、信じるに足りないと思えてしまいます。
 
 
でも、そんな説がささやかれるのは、後世の人々にとって謎めいた武将だからでしょう。

 
 

まとめ

 

 
上杉謙信の特徴を、最後にまとめました。
 
 
● 毘沙門天信仰が深く、義に生きようとした
● 越後の龍・軍神と呼ばれる戦上手
● 得意の戦法は、奇襲攻撃
● ライバルは武田信玄
● 酒をこよなく愛した武将だった
● 和歌、書道、茶道、琵琶の演奏などが匠だった

 

 

 

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