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こんにちは。
松永久秀といえば、あまたの戦国アニメやゲームで異彩を放つキャラとして登場しますね。
確かに、すごく個性的な戦国武将です。
斎藤道三のような下剋上の申し子のようにも思われますが、彼は美丈夫で立振る舞いが優雅な教養人だったといわれますよ。
茶人でかなりの茶器コレクター、築城の名人でもあり、領国では善政をしいて領民からは名君と慕われていたのだそうです。
でも、思い切ったこともできる人なので、信長でなくとも「おもしろい悪党よ!」と言いたくなる人なのでした。
まずは、彼のしでかした「三悪事」を暴いてみましょう。
松永久秀の3つの悪事とは?
松永久秀は、出自がよくわかっていません。
でも、そんなのどうでもいいわーと思えるほど、やったことがおもしろい人です。
松永は始めは三好家の家臣として働き、後に織田信長に仕えました。
その信長が徳川家康に松永を紹介するとき、こう言っています。
「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。常人では一つとして成せないことを三つも成した男なのだ。」
その3悪事がこちらです。
↓
1.主君(三好氏)への謀略
2.将軍・義輝の暗殺
3.東大寺大仏の焼討
そう、松永久秀は、三好長慶に仕えていたのですが、その嫡男が死に(松永が毒殺したという説も)、その後、長慶が亡くなり弟の子・義継があとを継いだとき、三好三人衆と共に、政権を二分してしまったのです。
また、三好家と将軍・義輝は、以前から対立したり和解したりを繰り返し、いろいろ問題を抱えていました。
それで、もうめんどくさくなったのか、松永は義輝を二条御所で暗殺したのです。
その後、彼は三好三人衆と対立し、河内・大和で戦になりました。
そのとき、松永は夜襲をかけたのですが、その混乱で奈良・東大寺の大仏が焼失してしまったのです。
奈良の大仏は「源平の合戦」でも焼失していますけど……。
現在の大仏は、後に修復されたものです。
下剋上で主を滅ぼすだけでなく、将軍暗殺・大仏焼失とくれば、さすがの信長もあっぱれと思ったのでしょう。
優れた茶人で「茶器コレクター」だった
松永久秀は、かなりのインテリ教養人でした。
指揮官として優れていたのでかなり賢い人だと分かりますが、当時、城よりも価値があるとされていた茶器に造詣が深かったのです。
三好三人衆と戦っていた頃、このタイミングで織田信長が上洛してきました。
松永は信長の動きを察知して、あらかじめ信長と連絡を取っていたため、すぐに臣従を申し出て許されました。
そのとき、信長に臣従の印として、「九十九髪茄子(つくもかみなす)」という高名な茶器を差し出したのでした。
松永は、茶器収集が趣味で、世間に名を知られた茶器をいくつも所有していたのです。
将軍・義昭にとっては、久秀は兄・義輝の仇なので反対しましたが、信長は松永を受け入れてかなり厚遇したのでした。
築城の名人だった
松永久秀は、一度、武田信玄や将軍・義昭の「信長包囲網」に組し、信長を裏切ったことがあります。
そのときは、信玄が病死して包囲網が崩れてしまい、松永は降伏しました。
でも、ラッキーなことにこのときは許されたのです。
でも、こんな個性の強い2人が仲良くやっていけるはずがなく、松永久秀は2度目の裏切りを決行したのでした。
信貴山城に籠った松永の軍は8千、対する信長の軍は4万の大軍勢でした。
信貴山城は包囲され、一斉攻撃が開始されました。(信貴山城の戦い)
でも、築城の名人だった松永が築いた信貴山城はとても防備が堅く、5倍の数の敵から攻撃を受けても、簡単には落城しませんでした。
兵の士気もなかなか強く、信長の兵に数百という損害を与えたことからも、松永が優れた指揮官だったと分かります。
信長が説得するも釜を抱いて爆死を遂げる!
とうとう、信貴山城が陥落するというとき、信長の使者が遣わされました。
「平蜘蛛の釜を差し出して降参すれば、罪を許す」
信長からの要求は、かなり甘いものでした。
以前、臣下になったときも茶器を渡していますから、また茶器を条件にということだったのでしょう。
しかーし、
松永久秀はこれを拒否したのです。
そして、城の天守に登り、「平蜘蛛の釜」に火薬をつめて爆死したのでした。
68歳でした。
おわりに
このものすごーくインパクトの強い最期のおかげで、松永久秀については、さまざまな誤伝が飛び交っています。
こんなことをしでかす人なのだから、きっとあれもこれもやったのではないかと思われがちなのです。
でも、実際は、そもそも「爆死自体がデマだった」(普通に切腹して果てた)という説もあるのでした。
真相は藪の中としておいたほうが、おもしろそうですね。
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