この記事を読むのに必要な時間は約 11 分です。


 
こんにちは。
 
 
「関ケ原の戦い」は、西軍から裏切者・やる気のない者続出で、東軍有利になったといわれます。
 
 
でも、一方の東軍も、実は、完璧な状態ではありませんでした。
 
 
東軍の多くは、上杉討伐で出向していたため、岐阜の関ケ原に向かうのに時間がかかったのです。そもそも、徳川家康の後継・秀忠が遅刻しています。彼は、戦が終わった後に、のこのこやって来るという始末でした。
 
 
戦の当日、関ケ原に集まった東軍の多くは、加藤清正、福島正則など、もとは豊臣方の武将の軍隊だったのです。
 
 
彼らに主導権を握られ手柄を立てられるのは、徳川家として今後よくありません。
 
 
そんな状況で活躍したのが、井伊直政だったのです。

 
 

スポンサーリンク

武田の精鋭を引き継いだ「井伊の赤揃え」の誕生

 

 
井伊直政が家康にデキると評価されたのは、始めは外交力でした。幼少時、鳳来寺でかくまわれていた間に、彼はしっかり学問を身につけていました。鳳来寺は、当時の中京地区の「知の中心地」だったのです。
 
 
その地で高い知力と教養を身につけた直政は、北条家との外交で成果を上げたのでした。
 
 
でも、その後、家康は直政に勇猛果敢で別格扱いだった武田騎馬隊の「赤揃え」を引き継ぐよう命じたのです。
 
 
井伊家の部隊はそのときから、当主から家臣にいたるまで、甲冑や旗指物など武器類を朱色で統一しました。
 
 
この「赤揃え」、戦国好きな人は、やっぱり本家の「武田の赤揃え」が印象深いでしょう。
 
 
武田家が滅亡し、武田を討った織田信長が本能寺の変で討たれると、武田の旧領地は徳川家康の手に渡ります。
 
 
そのとき、家康は武田の家臣や軍隊も吸収しました。精鋭の隊員数は74名と伝わります。
 
 
そして、家康はその精鋭部隊「赤揃え」の軍隊を井伊直政に任せ侍大将に取り立てたのです。
 
 
このとき、「赤揃え」のユニフォームだけでなく、武田の兵法も取り入れ、後に武田氏の旧臣たちが「井伊の軍法」としてまとめました。
 
 
旧「武田の赤揃え軍隊」といえば、当時のトップブランド・精鋭中の精鋭部隊です。
それを任されるというのは、武将として、とんでもない光栄な事なのでした。と、同時に、とんでもないプレッシャーだったでしょう。
 
 
当然、周りの武将たちの嫉妬は、すさまじかったそうです。
 
 
ただでさえ、直政は容姿端麗で家康に好かれていたとか、知将としても優れていたなど、粗忽な三河武士とは違うスタイリッシュな魅力があったようですから、武勇でまで負けてしまうとあっては、心中穏やかではありません。
 
 
榊原康政などは、このとき直政と差し違えるとまで言ったほどでした。
 
 
そんな周り(古参の武将たち)のやっかみを押さえるために、彼は常に結果を残す必要がありました。戦の時には、真っ先に最前線に立ちます。のんきに後ろで控えていると、どさくさ紛れに味方の弾が飛んでくるかもしれないリスクも十分ありました。
 
 
そんな彼は、生来の性格もキレッキレで、自分にも他人にも厳しすぎるほど厳しいストイックな人だったのです。

 

スポンサーリンク


 

先鋒は旧豊臣方の福島正則だったはず

 

 
「関ケ原の合戦」で、家康は先鋒隊を福島正則に命じました。
 
 
でも、実際に一番槍を入れたのは、井伊直政の隊です。
 
 
なぜだと思いますか?
 
 
当時、戦場で先鋒を託されるのは、何よりの名誉です。それを抜け駆けで奪われたとあっては、味方同士の争いに発展しかねません。また、重大な規律違反でもありました。それでも、あえて抜け駆けしたということは、そこにはもちろん大きな理由があったのです。
 
 
「関ケ原の合戦」のとき、東軍は、福島正則や加藤清正など、旧豊臣家の大名の軍勢が目立ちました。
 
 
徳川家の子飼いの大名は、松平忠吉と井伊直政の隊のみです。
 
 
ここで遅れをとっては、戦後処理を行う際に、徳川の一存で決めることができなくなるかもしれません。
 
 
そこで、彼は福島正則に一応の敬意を払いながら、止む終えず先に戦ったという体を装ったのです。
 
 
当日の関ケ原は深い霧におおわれていて、周りがよく見えないというラッキーな状態でした。
 
 
また、福島隊の脇を抜けるとき、見とがめられたのですが、「少数で初陣の娘婿・家康の四男の松平忠吉に戦況を観察させたいので通らせてほしい」という言い訳をしています。
 
 
そうしているうちに、たまたま西軍と出くわしてしまって、思わず戦っちゃいました~って体で戦ったのです。
 
 
そうして、彼は先陣を切って戦ったのですが、戦後、福島正則、抜け駆けされたことを問題にしませんでした。直政の一応の配慮とその心情が、伝わったのでしょう。

 
 

「島津の退き口」を猛追撃する!

 

 
「関ケ原の合戦」の最後は、西軍・島津義弘の中央突破による「退き口」でした。
 
 
島津義弘率いる島津隊は、なんと東軍の中央を突っ切って、敗走する策に出たのです。
 
 
おおよそ東軍の勝利が確定している中、鬼気迫る島津の軍隊に、東軍の兵は彼らの敗走を見逃しました。島津隊は福島正則の隊のすぐ脇を抜けていきましたが、追撃されることはありませんでした。
 
 
もう勝敗はついているので、ここでむやみに追って命を落とすようなことがあったら無駄死にだからです。
 
 
でも、このとき、本気で追撃をかけた隊があります。
 
 
それが、井伊直政の精鋭部隊でした。
 
 
直政は、いつも通り真っ先に飛び出していき、敗走する島津勢にくらいついていきました。
 
 
そして、その銃弾を受け倒れたのです。
 
 
弾は彼の鎧(よろい)の右脇に当たり、跳ね返って右腕を傷つけました。井伊の赤鎧は、当時の銃弾を跳ね飛ばすほど硬かったんですね。立派です。
 
 
井伊直政は、合戦後、傷が癒えるまもなく、戦後処理に追われました。関ケ原の戦後処理は、ほとんど彼が担当しています。
 
 
直政は、負傷の原因になった島津義弘の薩摩隊を勇猛果敢と称え、家康に情状酌量を訴え、ここでも外交手腕を発揮しています。
 
 
しかし、そのときの弾傷がもとで、関ケ原から2年後、42年の生涯を閉じたのでした。

 
 

おわりに

 

 
井伊直政は、その功績だけを見ていくと、文武両道の素晴らしい武将です。新参者でトントン拍子に出世し、徳川四天王と呼ばれるまでになったのですから、努力も度胸も人一倍だったでしょう。
 
 
でも、彼は自分の家臣たちに、ものすごく厳しかったそうです。
 
 
井伊家はほぼ滅亡したので、彼の率いる部隊は自分の「家」のものではなく、家康から与えらえたものでした。しかもプライドの高い旧武田の家臣もいます。それらの家臣を統制するために、彼は自分自身は舐められないよう常に律し、家臣にはちょっとしたことで厳罰を下すという恐ろしい一面があったのです。
 
 
若くて有能な新参者に他の土地の軍隊を与えて、既存の部下(三河武士)と競合させる、徳川家康のトップとしての手腕がさすがですね。
 
 
現代の会社の吸収合併と似たようなものだと思います。家康は武将らしい武将ではなく政治家っぽいのであまり好きではないのですが、優れた経営者だったのは確かだと納得なのでした。
 
 
そういう人だから、260年も破たんしないシステムを作り出せたのでしょう。
 
 
【関連記事】
   ↓


 

 

 
 

スポンサーリンク