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こんにちは。
 
 
豊臣秀吉の親戚で、勇猛な武将として人気のある加藤清正。
 
 
武闘派というだけでなく築城の名手で内政もしっかりしていた彼は、死因が特定されず謎めいていることでもよく知られる武将です。
 
 
今回はその加藤清正の一生とエピソードをご紹介します。

 
 

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加藤清正の簡単な経歴

 

 
加藤清正の父は尾張(愛知県)の刀鍛冶だった加藤清忠、母は伊都です。
 
 
清正の父は清正が3歳のときに亡くなり、彼は母と共に津島(愛知県)に移住しました。母親はとてもしっかりした人で、清正はお寺に通っていろいろな知識を学ぶことができたそうです。
 
 
加藤清正と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、母同志が遠い親戚だったという縁がありました。それで、清正は秀吉の治める近江(滋賀県)の長浜城へ行き小姓として仕えることになったのです。
 
 
清正はたいへん利発な子でたくましい体つきをしており、武芸もどんどん上達していきました。子どものいなかった秀吉の正室・ねねが母代わりになり、とてもかわいがっていたと伝わります。
 
 
成人後、彼は数々の戦さに出陣し活躍しました。1586年、豊臣秀吉が天下統一のため島津氏を倒そうと九州に出兵しました。
 
 
そのとき失政により肥後国(熊本県)の佐々成政が改易され、その後、加藤清正がその領地を任されることになったのです。
 
 
このとき、加藤清正は若干28歳で20万石もの大名に大出世したのでした。
 
 
豊臣秀吉が亡くなると、彼は石田三成とそりが合わず徳川家康に近づくようになりました。そして、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍(家康)に付きました。
 
 
このとき彼は、関ケ原ではなく黒田長政とともに九州地方で毛利氏のけん制に務めました。その戦功が認められ、52万石の大名になったのです。
 
 
清正は豊臣家への忠誠も忘れずもっていて、1611年に二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を取り持ち和解を取り付けたことでも知られます。
 
 
でも、この二条城からの帰りに、船内で高熱に見舞われて急死したのです。

 
 

「賤ヶ岳の7本槍」と言われたくなかった?

 

 
1582年、織田信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれた後、明智光秀を討ち取った豊臣秀吉が、信長の家臣の中で大きな影響力を持つようになりました。
 
 
そして、信長の3男・信孝を推す柴田勝家と嫡男信忠の子・三法師(織田信秀)を推す羽柴秀吉の間で対立が生じ、翌1583年には、近江の賤ヶ岳付近で「賤が岳の戦い」が起こりました。
 
 
加藤清正はこの戦いで太刀や槍を持ち柴田軍に突撃し大活躍しました。
 
 
この戦で柴田勝家は敗戦し、居城の「北ノ庄城」へ逃れましたが、前田利家を先方とする秀吉軍に包囲されました。そして、翌日には妻の「お市の方」と共に自害して果てたのでした。
 
 
この「賤ヶ岳の戦い」で秀吉側で特に活躍した「7人」が、後の時代に「賤ヶ岳の7本槍」と呼ばれるようになりました。加清清正もその中に数えられています。
 
 
「7本槍」は、こちらの7名です。
     ↓
加藤清正(かとうきよまさ)
福島正則(ふくしま まさのり)
脇坂安治(わきさか やすはる)
片桐且元(かたぎり かつもと)
平野長泰(ひらの ながやす)
糟屋武則(かすや たけのり)
加藤嘉明(かとう よしあきら)

 
 
でも、この異名は秀吉が自分の力を誇示するために作ったものともいわれ、本人はそう言われるのを嫌がっていたともいわれます。
 
 
なぜなら、彼はどちらかというと武より財務、民事、築城など内政での実績のほうが多かった大名なのです。
 
 
熊本城はもちろん名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっています。

 
 

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領民に慕われた名領主だった

 

 
加藤清正は、彼は築城の名手で内政にもかなり目を行き届かせている名領主でした。
 
 
領内の治水工事にも力を入れ、領民からは絶大な人気を誇っていたのです。
 
 
また、熊本城はもちろん、名護屋城、蔚山倭城、江戸城など数多くのお城の築城に関わっています。
 
 
秀吉亡き後、石田三成と不仲になっていったことや、歴史ドラマで武人っぽい役柄になることが多いので、武闘派のイメージがありますが、どちらかというと優秀な知将だったと思われます。

 
 

加藤清正の死因は謎のまま!

 

 
加藤清正の死因は、特定されていません。
 
 
時代ドラマなどでは、徳川家康による暗殺説がとられている場合が多い(「真田丸」など)ですが病死だった可能性も高いのです。
 
 
死因についての有力説は、こちらの2説です。
     ↓
1.家康による毒殺説
2.梅毒(性病)説

 
 
1611年6月24日に加藤清正は本拠地の「熊本城」で亡くなったのですが、彼は亡くなる直前に徳川家康と豊臣秀頼の和解のために貢献していました。
 
 
清正は豊臣秀頼につき従って、徳川家康と京都の二条城での会見に参加したのです。そして、その会見から熊本城へ帰る船の中で、体調が急変したのでした。
 
 
このことから、二条城で出された料理、または饅頭(まんじゅう)に遅発性の毒が仕込まれていたという説がささやかれるのです。
 
 
でも、もう1つ、病死説も有力です。
 
 
彼は梅毒という性病に感染していて、その病が原因でなくなったとも考えられています。
 
 
もしも梅毒だったら、死に至るまでには10年ほどかかります。彼が朝鮮出兵の際に朝鮮の遊女から感染したと考えると、ちょうと時期が合うのです。(朝鮮の遊女から梅毒に感染した武将は、他にもたくさんいたと思われます)
 
 
でも、結局今となってははっきり解明できないので、加藤清正の死因は謎のままなのでした。

 
 

加藤清正の子孫は?


加藤清正の子孫は、現在も健在なのでしょうか?
 
 
清正の息子の忠広(ただひろ)には息子が2人・娘が1人いました。
 
 
でも、長男の光広(みつひろ)は、ささいな事から徳川家より蟄居処分(謹慎)の身となり、その翌年に病死してしまいました。彼に子供はいませんでした。
 
 
次男の正良(まさよし)は、父の忠広が亡くなった後、自刃しています。こちらも子供はいませんでした。
 
 
加藤清正の娘は徳川家康の10男の頼宜(よりのぶ)と結婚したのですが、こちらも子供にめぐまれなかったのです。
 
 
つまり、加藤清正の直系子孫は、孫の代で途絶えてしまったのです。
 
 
でも、清正の息子の忠広は丸岡市(福井県)で、1男1女を授かりました。この庶流の2人の子どもによって加藤清正の血は現代に受け継がれているそうです。

 
 

加藤清正の簡単年表


・1162年(1歳)
尾張国で誕生。(幼名は虎之助)
 
・1573年(12歳)
羽柴秀吉に仕える。
 
・1583年(22歳)
「賤が岳の戦い」→七本槍
 
・1588年‐1592年(27‐31歳)
「朝鮮出兵」(文禄の役)出陣→帰国後蟄居処分
 
・1596年(35歳)
「伏見大地震」発生。秀吉の元に駆け付け蟄居を解かれる
 
・1597年(36歳)
「第二次朝鮮出兵」(慶長の役)出陣。
 
・1598年(37歳)
豊臣秀死去。朝鮮から帰国。
 
・1600年(39歳)
「関ヶ原の戦い」九州で毛利氏を牽制。
 
・1611年(50歳)
徳川秀吉と豊臣秀頼を二条城で和解させる。
帰路の船上で発病→熊本城にて死去。

 
 
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