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こんにちは。
 
 
14世紀ヨーロッパでは、イングランド(イギリス)とフランスの間で、領土配分とフランス王位継承をめぐる争いが起りました。
 
 
きっかけはユーグ・カペーに始まったフランスカペー朝の断絶です。
 
 
フランス王家がシャルル4世をもって断絶し、後継者を決めるとき母親がシャルル4世の妹だったイングランドのエドワード3世が王位継承権を主張したのです。
 
 
ま、他にフランドル地方やニュイエンヌ地方という領土問題が、からんでいました。
 
 
この戦争は、ぐずぐずと1世紀以上続いたため、英仏百年戦争(1337ー1453年)と呼ばれます。
 
 
百年も続いたので、主役級の登場人物が、前半と後半で変わっています。そして、ずーっと百年間もドンパチやってたわけではありません。
 
 
戦争というのは、めちゃくちゃお金がかかりますからね。休戦状態だった期間も長いのです。
 
 
ジャンヌ・ダルクは、この百年戦争の終盤に登場し、フランスを勝利に導いた「聖女」とされています。

 
 

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◆神のお告げを聞いた田舎娘ジャンヌ

 
【出典元:Wikipedia】
 
ジャンヌは、1412年、ロレーヌ地方のドンレミという田舎の村で生まれました。
 
 
彼女はたいへん信心深い農夫の娘でした。そして、彼女が13歳のある日「シャルル王太子を王にせよ」という神のお告げを聞いたのです。
 
 
それも「聖人」と「天使」がダブルで登場、天使はミカエルだったそうです。メッセンジャー・ガブリエルじゃなかったみたい・・・
 
 
そして、彼女は1428年に故郷を旅立ち、彼女の話を聞いてくれる貴族を探します。
 
 
いくら「神秘体験」が信じられていた中世でも、田舎娘が「神の声」を聞いたといったところで「そんなアホな!」という感じです。簡単には信じてもらえなかったのでした。
 
 
でも、ジャンヌが「○○日に○○地方でフランス軍が敗けるでしょう」と言った予言が見事に的中!
 
 
将軍たちも、これは本物かもと思い始めます。
 
 
そうして、シャルル王太子(後のシャルル7世)に謁見できることになりました。
 
 
このとき、シャルルは身分を隠して、粗末な身なりで王太子の従者のふりをしていそうです。でも、ジャンヌは迷うことなく、真っすぐ王太子のもとに向かって、「あなたをフランス王とするために参りました」と言ったと言われます。
 
 
これを聞いたシャルル王太子は、ジャンヌをすっかり信用したのでした。

 
 

◆「オルレアンの奇跡」でカリスマ聖女に!★ジャンヌの絶頂期

【出典元:Wikipedia】

 
ジャンヌのうわさは、瞬く間にフランス軍に伝わりました。
 
 
ジャンヌは妄信的な狂信者だったので、ものすごいカリスマ性があり演説が上手でした。そして、常に最前線で戦いました。
 
 
この姿を見て、一緒に戦う兵たちは、「奇跡の聖少女」「勝利の女神」だと沸き、彼女がついていたら絶対勝てるという妙な自信を持って、やる気満々になったのです。
 
 
そして、戦いは連戦連勝しました。彼女は、軍旗を持って軍の先頭に立って突撃しました。
 
 
そうして、主要都市オルレアンを他の将軍たちと一緒に攻めて、イングランドから取り戻したのです。このオルレアン包囲戦は、百年戦争のターニングポイントになった戦いでした。
 
 
なぜなら、この戦いの後、シャルル王太子が、ランスでシャルル7世として戴冠式を行ったからです。
 
 
ジャンヌは「神のお告げ」を遂行できたのでした。

 
 

◆イギリス軍の捕虜になったジャンヌ

 

【出典元:Wikipedia】

 
戴冠式を済ませたシャルル7世は、これからは国の安定のために、イングランドとの和平を模索し始め、イングランドの味方だった「ブルゴーニュ派」貴族達を懐柔しようとします。(←シャルルは政治力がありますね)
 
 
そうすると、何が何でも戦ってパリを奪還するのだという「主戦派」の人々が困った存在になってきたのです。ジャンヌは、めちゃくちゃ極端な「主戦派」でした。
 
 
そして、「主戦派」の兵たちと無理をして「イングランド=ブルゴーニュ軍」をコンビエーニュで攻めたジャンヌは、敗れて捕虜になってしまいました。
 
 
「ブルゴーニュ派」の貴族達は、捉えたジャンヌをイングランド軍に引き渡したのでした。

 
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◆ジャンヌ・ルーアンで宗教裁判にかけられ魔女に認定

 

【出典元:Wikipedia】

 
それまで戦争を有利に進めていたのに逆転されるきっかけになったジャンヌは、イングランドにとってもっとも憎むべき敵でした。
 
 
それで、ルーアンで宗教裁判にかけられたのです。
 
 
イギリスはジャンヌが男装をしていることを理由に、彼女は「神のお告げ」といって人心を惑わせた異端であり悪魔崇拝者(魔女)だと決め付けました。
 
 
男装は兵士に襲われることから身を護るためで、甲冑は戦いで命を守るためだったのですが、キリスト教では女性が男装をすることは厳しく禁じられていたのです。
 
 
当時の異端裁判は、魔女狩りの一種で、魔女は悪魔と性交しているから処女ではないと考えられていました。それで、ジャンヌは処女検査も受けさせられたのです。(おそらく女性による触診ですが、公衆の面前だったかもしれません)
 
 
その検査で、ジャンヌの処女は、証明されました。
 
 
それで、裁判の途中、ジャンヌは一時、無罪になりそうだったのですが、男の看守から身を護るため、再びズボンをはいてしまったのです。
 
 
キリスト教では禁忌を2度破ったものは死罪、それもキリスト教徒としてもっとも忌むべき火あぶりに処せられます。遺体が灰になってしまうと「復活」できないと考えられてたからです。
 
 
ジャンヌは、1431年、火あぶりの刑に処せられました。まだ19歳でした。
 
 
ジャンヌの遺体は、完全に灰になるまで焼かれ、その灰はセーヌ川にまかれました。

 
 

◆シャルル7世はジャンヌを見殺しにしたひどい王様だった?

 

【出典元:Wikipediaシャルル7世の戴冠式】

 
シャルル7世は、自分が戴冠を済ませた後、ジャンヌを完全に見捨てたように思われがちです。確かに、身代金を支払わなかったので、結果的に見殺しにしたようなものです。
 
 
当時のヨーロッパの戦争では、身代金を払えば捕虜は助けてもらえました。でも、フランスはお金を出さなかったんです。
 
 
その理由は、確定されていませんが、このような説があります。
 
 
1.元々ジャンヌを利用していただけだから、王となったらもう用済みになった
2.ジャンヌの人気が高すぎて、将来自分の地位を脅かされるかもしれないと考えた
3.即位したばかりのシャルル7世はまだ強い権力を持たず、主戦派を嫌う穏健派の強い反対にあい、見捨てるしかなかった

 
 
ポイントは、シャルル7世が、莫大な身代金を「出さなかったのか」それとも「出せなかったのか」という点です。
 
 
「ジャンヌ・ダルク」の物語では、聖少女の悲劇性を高めるため、たいてい(1)と(2)の理由になってます。
 
 
今となっては理由は分かりませんが、ジャンヌが「ブルゴーニュ派」につかまったとき、シャルル7世は、「イングランド軍に引き渡さないように」と、一応手紙で脅しをかけています。でも、効果がなく「ブルゴーニュ派」は、ジャンヌをイングランド軍に売ったのです。
 
 
見殺しにしたと思われても仕方がありませんが、私はシャルル7世を少し擁護したいです。当時はまだ「戦争中」でしたから、いろいろ事情があって難しかったんだと思うのです。
 
 
でも、シャルル7世は、この後、20年以上続いたこの戦争で勝利を治め、戦後はフランスの復興と回復に努めたため、王としては最低の評価ではありません。

 
 

◆ジャンヌ「聖女」への復権

 

 
百年戦争が終わると、シャルル7世は、すぐにジャンヌの裁判の再調査を命じました。このことからも、シャルル7世が、ジャンヌをまったく無視していないとわかります。本気で見殺しにしていたら、なかったことにして触れないでしょう。
 
 
さらにもう一度1456年、やり直しの復権裁判が行われ、その結果「ジャンヌの無実と復権が宣告」されました。
 
 
聖女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)は、1920年には聖人に列せられ,それを祝うお祭りが毎年5月に国民的祭典として、今も行われているのでした。
 
 
ジャンヌは凄惨な最期と遂げましたが、この国民的英雄をフランス国民は忘れていないというのが、わずかな救いでもありますね。

 
 
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