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こんにちは!
 
 
ヨーロッパの絶対王政と聞いて絶対に外せない女帝マリア・テレジア
 
 
彼女はオーストリアを近代化し、終生プロイセンと戦った女傑です。
 
 
いろいろすごい人なので、ご紹介します!

 
 

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◆女性差別と戦いぶっ飛ばした女帝

 

【出典元:Wikipedia】

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若き日のマリア・テレジアの肖像です。美しいと評判の皇女でした。凛として賢そうですね。
 
 
マリア・テレジアは、1717年、ハプルブルグ家のカール6世の娘として生まれました。
 
 
カール6世に子供は少なく、男の兄弟はすべて亡くなり、残ったのはマリア・テレジアともう1人の妹だけでした。
 
 
そうすると、こういう家では跡継ぎ問題が大きな問題になります。
 
 
最終的にマリア・テレジアが皇帝になったのですが、当時オーストリアでは女性の君主は認めないという法律があったのです。
 
 
その「君主は男だけ!」という男尊女卑法典は「サリカ法典」というものなんですが、フランク王国(フランスの前身)で作られたかなり古臭い法典なのです。
 
 
パプルブルグ家は、別にいっかということでマリア・テレジアを女帝に推しました。
 
 
でも、このハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の皇帝家でもあったので、「女の皇帝なんて絶対ダメ!」という意見が噴出したのです。
 
 
なんとかごまかそうとして、夫のフランツ・シュテファンを「皇帝」とし、マリア・テレジアを「皇后」という形にして1740年に即位させたのですが、ハンガリーなど他の領土ではマリア・テレジアが「女王」と記されたので、諸国からブーイングが起こったのです。
 
 
いろいろうるさいですね、周辺国。
 
 
特にうっとおしかったのは、隣のおっさん、プロイセン王国のフリードリヒ2世でした。
 
 
でも、これに領土分割をもくろんだハイエナ的ほかの諸国も乗っかって、一緒になってオーストリアに攻め込んできたのです。
 
 
それが「オーストリア継承戦争」と呼ばれるものです。
 
 
即位したとき、マリア・テレジアは23歳だったのですが、第4子を妊娠中(後継ぎのヨーゼフ2世)でした。17歳で結婚して23歳でもう4人目を産もうとしていたということです。すごいですね。
 
 
これまで女帝としての訓練を受けてこなかったマリア・テレジアはこの戦争に苦戦し、シュレジエンをプロイセンに奪われてしまいました。
 
 
でも、泣き寝入りをするのは嫌だと、身重の彼女は立ち上がります!
 
 
そうして、ハンガリーで演説を行い(このときも妊娠中)、ハンガリーの協力を取り付けることに成功したのです。

 
(ハンガリー女王として戦いに臨むマリア・テレジア。凛々しいです)
【出典元:Wikipedia】

 
ハンガリーは、もともとアジア系遊牧民です。なので、ハンガリー軍は勇猛な騎馬隊を持っていて、ものっすごく強かったのです。この軍隊の力で、劣勢がくつがえり、さらにバイエルンを占領するという快挙を成し遂げたのでした。
 
 
この後、ハンガリー軍は、後世までハプスブルク家の軍隊の主軸を務めることになっていきます。

 

 

◆外交革命でプロイセンに対抗!

 

【出典元:Wikipedia】

 
ハンガリーが味方についてくれたことなどから、戦争は巻き返すことができましたが、シュレジエンはプロイセンに奪われたままでした。
 
 
この地域は、穀倉地帯なので、是非とも取り返したいところ!
 
 
そこでマリア・テレジアは、ロシアと元敵だったフランスに呼びかけて同盟を結びます。
 
 
これが、いわゆる「3枚のペチコート作戦」です。
 
 
3つの国の3人の女帝による同盟だったからですよ。
 
 
後の2人は、ロシアの女帝エリザヴェータフランス国王の公妾ポンパドゥール夫人です。
 
 
フランスはルイ15世が治めていましたが、政治に関心のない国王で、公妾のポンパドゥール夫人が大奥政治を行っていたのです。王の愛人が女帝たちと渡り合っていたというのも、なかなかすごい話でね。
 
 
でも、とっても賢い女性だったんです、彼女。⇒まるで政治家?な愛妾ポンパドゥール夫人
 
 
このオーストリアのリベンジ戦争は「七年戦争」と呼ばれます。
 
 
でも、この同盟はロシアのエリザヴェータ女帝が急死してしまい、次のドイツかぶれのバカ息子・ピョートル3世が軍を引き上げさせてしまったため崩れてしまいました。
 
 
また、これまでの戦争で膨大な戦費を使い、国庫への負担が大きくなっていました。
 
 
そうして、この戦いは中途半端に終わり、領土奪回はあきらめなければならなくなったのでした。

 
 

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◆夫とラブラブ恋愛結婚で16人の子供を産んでいた!

 
(マリアテレジア夫妻と息子ヨーゼフ)

【出典元:Wikipedia】

 
この人のすごいのは、戦争しまくっていて、国内発展させまくっていた間に16人もの子供を産み続けていたところです! 5男11女です。
 
 
育児は完全人任せだったでしょうけど、出産経験者ならわかるはずです、妊娠中の体調不良。
 
 
男の国王は、何人子供がいたってかまいません。自分で産んでるわけでもなく、複数の女性に産ませていることが多いですからね。
 
 
でも、マリア・テレジアは、自分で16人も出産してるんですよ!(←しつこい)
 
 
そして、その多くを外交の手ゴマとして、政略結婚に使っているのです。まさに女傑です!
 
 
もっとも有名なのがフランス王家に嫁いだ末娘(11女)のマリーアントワネットです。
 
 
マリア・テレジアは、王族なのにたまたま決められた結婚が初恋のお兄さんでした。ですから、結婚してからもラブラブで「奇跡の恋愛結婚」をしたハッピーな女性だったのです。
 
 
マリア・テレジアが15歳の凛々しいシュテファンと出会ったのは6歳のときでした。それから「夜には彼を夢に見、昼間は取り巻きたちと彼の話をする」という感じで、それはそれは恋する乙女だったのです。
 
 
マリアテレジアは女帝として多忙だったので、夫のシュテファンは何度か浮名を流しますが、相手の女性を知っていて黙認していたそうです。
 
 
そして、シュテファンが病死してから、マリアテレジアは、自分が亡くなるまでの15年間、喪服を着続けたそうです。なんだか素敵な話ですね。

 
 

◆マリア・テレジアのまとめ

・ハプスブルグ家のオーストリアの女帝
 
・戦争しまくりながら恋愛結婚で16人の子供を産み続けた
 
・女帝に即位した途端「オーストリア継承戦争」でプロイセンに攻め込まれシュレジエンを奪われた
 
・「3つのペチコート作戦」で「七年戦争」を戦った
 
・オーストリアの近代化と領土拡大に努めた
 
・プロイセンのフリードリヒ2世は生涯のライバル

 
 
 
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