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こんにちは!
 
今日はロシアのお話です。
 
 
この国は、たまに出現するカリスマリーダーによって飛躍的に発展するという歴史があります。
 
 
ピョートル1世(大帝)(1672~1725年)は、その中でも、ロシアを農奴制の後進国から「ヨーロッパの強国」へと押し上げたカリスマ指導者でした。

 
 

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◆ピョートル1世(大帝)はこんな人!

 

【出典元:Wikipedia】

 
雷帝と呼ばれたイヴァン4世の死後、ロシアではロマノフ王朝が始まりました。
 
 
ミハイル・ロマノフを皇帝(ツァーリ)として迎え、ロマノフ朝を開いたロシアは、その後も帝位をめぐる争いが続きずっと政局が不安定でした。
 
 
1682年に帝位についた第5代目のピョートル1世(大帝)も、なんだかんだともめ事があって、親政を始めたのは1694年になってからでした。10歳で帝位について、実権を握ったのが22歳からとなります。
 
 
「わが国は遅れている!」とつねづね思っていたピョートル大帝は、ヨーロッパに300人を超える視察団を送ることに決めました。そうして準備をしていろいろ考えているうちに、自分も行きたくてしかたがなくなったのです。
 
 
そうして、実際に、身分を隠して使節団に混ざって行っちゃったんですよ!
 
 
この行動力、素晴らしいです!

 
 

◆オランダの造船所で職工としてアルバイト!

 

 
ピョートル大帝は、1697~98年に、皇帝という立場でありながら、身分を隠してわざわざ「ピョートル・ミハイロフ」という偽名まで使い、視察団の一随員に加わってヨーロッパを歴訪しました。
 
 
まず、彼らはプロイセンのケーニヒスベルクで砲術を習いました。
 
 
その後、オランダに行くと、ピョートルは単独行動をとって造船所で職工として働き、実際に自らハンマーをふるって造船技術を習得したのです。
 
 
ただ、ピョートル大帝は身長が2メートルもある大男として知られていたため、すぐに皇帝だとバレたそうですよ。それでも気にせずトンカチやっていたそうです。なんだかおもしろい魅力のある人ですね。
 
 
4ヶ月にわたるオランダ滞在では、造船所で働いている合間に、博物館や裁判所、病院など視察してライデン大学では解剖学の講義などを聴講しています。
 
 
それから、もっと深く造船学を学びたいと思って、イギリスに渡りウィリアム3世に歓迎されました。イギリスでも、造船所で技師見習いとして働いて、砲弾工場などを視察しています。物づくりが、好きな人でもあったのでしょう。
 
 
ピョートル大帝は、プロイセン、オランダ、イギリス歴訪で、近代化が進んだヨーロッパ文化に大いに刺激を受けました。
 
 
そして、帰国後は、積極的に西欧化政策を進めていきます。
 
 
彼はまず、西欧の風俗や生活様式を国民に強制して、ヨーロッパ風の学校を設立して教育を重視しました。
 
 
おもしろいのは、ロシアの男性が胸に届くほどのヒゲを伸ばす習慣があるのを後進国の現れだと考えてd
「ヒゲ税」を作ったことです。多くの人に抵抗があって、税金かけなければ従わなかったということでしょう。
 
 
そして、西欧から技術者を多数呼び寄せて、ロシア産業の近代化に力を注ぎました。
 
 
でも、こういう思い切った改革を行うと不満分子による反乱が起りがちです。このときも、保守勢力の不満がつのってロシア各地で反乱が続発しました。それに皇太子アレクセイも加担して処刑されるという事件が起こっています(1718)。
 
 
それでも、ピョートル大帝の近代化への道は、ゆるぎないものでした。
 
 
彼はまた、啓蒙専制君主として、地方自治制度や元老院などを設置して中央集権化を強めていきました。そして、重商主義政策をとり、産業を保護していったのです。

 

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◆積極的な外交政策

 

【出典元:Wikipedia】

 
ピョート大帝は、軍備の拡大を背景にしてシベリアに進出し、黒竜江(アムール川)沿いに南進し、中国・清(康煕帝の時代)と衝突しました。このとき彼は清と国境を定める条約を交わしています。
 
 
その1689年の「ネルチンスク条約」は、中国史上最初の対外領土条約でした。
 
 
また、南方ではオスマン=トルコと戦って、黒海にあるオスマン領アゾフ海を占領(1696)しました。
 
 
北方では、バルト海の強国スウェーデン(時の皇帝カール12世)「北方戦争」(1700~21)を戦い勝利します。そして、にスタット条約を締結し、バルト海の制海権を獲得しました。
 
 
この戦争の勝利は、ロシアにとって大きな意味がありました。

 
 
「西欧への窓」新首都のペテルブルクが築かれたのです。これで北欧の強国は、スウェーデンからロシアへと移ったのでした。
 

 

◆親分気質の君主だったが家庭は不幸だった

 

 
「大帝」と称され、ヨーロッパ冒険の旅(?)にも出た功績を讃えられ楽しい人生だったかのようなピョートル1世。
 
 
いい事ばかり書いてきましたが、実は、彼は家庭的にはかなり不幸だったのです。
 
 
妻エヴドキアはピョートル1世の暗殺を企て、息子アレクセイも暗殺を企てて死刑になりました。
 
 
さらに、ピョートルが信用していた次の妻エカテリーナは、浮気をしてしまいました。
 
 
晩年は、孤独にさいなまれた人だったようです。
 
 
そんなある日、ピョートル大帝は、地方巡視をしていたとき、冬の川で船が座礁し乗組員が溺れていたのを目にしました。彼はそのとき、真冬のロシアの海にダイブし、乗組員を助けたのだそうです。
 
 
その後、彼は高熱を出し、そのまま風邪をこじらせて亡くなってしまったのでした。53歳でした。
 
 
なんだか死に方も、人助けという、いい人エピソードですね。

 
 

◆ピョートル1世(大帝)のまとめ

 

 
ロシアの近代化を進め、農奴制の残る後進国から飛躍的に発展させたピョートル大帝。
 
 
彼は、すごく知的好奇心の強い行動派だったと分かります。
 
 
ロシアはこういうカリスマ君主の元で、大きく発展していく国でした。

 
 

・ヨーロッパを視察しロシアを強国に発展させた
 
・ロシアの絶対王政を確立した君主
 
・自分の暗殺を企てた息子アレクセイを処刑した
 
・西洋化反対勢力による反乱が各地で起こった
 
・新首都ペテルブルグを築き「西欧への窓」を開いた
 
・東方南方へ領土を広げた
 
・溺れている人を助けて風邪で亡くなった

 
 
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