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今回は、「槍の又左」こと、前田利家を紹介します。
 
前田利家といえば、長身美男で信長のお気に入りの小姓、長槍の名手で「かぶき者」というなかなか派手で豪快なイメージの人です。
 
そういえば、同じく「かぶき者」の前田慶次も親戚でした。
織豊政権では非常に大事な人ですし、やたらとよくできる妻の「まつ」も有名です。
 
「加賀百万石」の礎を築いた凄いなのですが、なかなか波乱万丈な人生を歩んでいます。
 
それでは、前田利家の有能さや特徴を、エピソードを交えて紹介しましょう。

 

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槍の又左

 

 
前田利家(1539年~1599年)は、尾張国(愛知県名古屋市)の土豪、前田利春の4男として生まれました。織田信長より3歳年下です。
 
15歳のときに立身出世を願い、自ら信長の小姓になります。
一本気な性格が信長に気に入られ、そば近くに仕えるようになりました。若い頃の利家は、すごく短気で喧嘩っ早く、派手な格好ばかりして、「かぶき者」と呼ばれる荒くれ者でした。
 
一方で、そろばんを使った算術を得意として、書道などにも親しんでいたそうです。
当時は、そろばん自体が珍しかったのですが、後にそれを使いこなして、前田家の家計を自分で算段するほど使いこなしていたそうですよ。
 
容姿は、約182cmの長身の美貌で知られ、小姓時代には信長から寵愛を受け、衆道の相手も務めていたと、加賀藩の資料「亜相公御夜話」に記されています。衆道については、また別の機会に書きますが、戦国時代は武士のたしなみの1つともみなされていたようです。
 
長槍を振り回す武将姿も、非常に見栄えがよく、かっこよかったでしょうね。(≧◇≦)
 
初陣は、1552年の「萱津の戦い」です。
この戦いは、信長の織田氏と守護代・清州織田氏との氏族間の争いでした。
 
その後、利家は、元服して前田又左衛門利家と名乗り、数々の戦で活躍します。
 
戦場で6m以上もある長槍を振り回して奮戦したことから、彼は「槍の又左」と呼ばれました。
 
利家は、「母衣衆(ほろしゅう)」と呼ばれる信長の近軍団の「赤の筆頭」として仕え、武勲を重ねていきます。
 
「母衣衆(ほろしゅう)」には、「赤母衣」と「黒母衣」があり、「黒の筆頭」の佐々成政(さっさなりまさ)とは、ライバルで戦友でもあったようです。
 

 

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妻まつとの結婚と織田家勘当

 

 
利家は、1558年、22歳のとき、10歳年下の従妹のまつを妻に迎えます。
 
まつは、まだ12歳でしたが、たいへん美しく、社交的な性格で、読み書きそろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性でした。
 
でも、利家は、まつと結婚した翌年、とんでもないことをやらかしてしまいます。
 
なーんと、信長のお気に入りの弟で雑務を務めていた拾阿弥という人を、信長の目の前で切り捨ててしまうのです。短気すぎてヤバいです。
 
当然ですが、信長の逆鱗にふれ、織田軍から勘当されてしまうのでした。
 
それから、仕方なく、利家は流浪生活を続け、「桶狭間の合戦」(1560年)が起こったときは、チャンス!と思って無断で参戦し敵を倒しますが、信長様に許してもらえませんでした。
 
ようやく信長様の怒りが溶け、織田家へ帰参できたのは、2年後(1561年)でした。このときも、「森部の戦い」で勝手に戦に参戦し、信長に敵の首級を持参しています。

 

前田家当主となって織豊政権を支える

 

 
前田家は、利家が放浪している間に父の利春が死去して、長兄の利久が家督を継いでいました。
 
しかし、兄の利久には実子がいなくて病弱だったため、織田信長の命により、前田家の家督は利家に移りました。(1569年)
 
その後は、ずっと信長の下で働きますが、「本能寺の変」で信長が討たれるという大変な事態になります。信長亡き後、柴田勝家と豊臣秀吉の間で勢力争いが起こり、それが「賤ヶ岳の戦い」へと発展していきます。
 
利家は、立場的に、とっても微妙な立ち位置になってしまいました。
 
なぜなら、若い頃から豊臣秀吉とはなじみで、同じ長屋の隣に住んでいて、夫婦ともどもとても親しい間柄だったのです。また、娘の豪を秀吉の養女にしていました。
 
一方で、利家にとって、柴田勝家は、若い頃から親身に目をかけてもらっていた心強い「親父様」でした。当時は、織田家筆頭の勝家の下で、与力として働いていたのです。
 
律儀者の利家は、板ばさみになり仲を取り持って悩みますが、最終的には、秀吉につきました。
 
勝家は、最期の戦の前に、本拠地北ノ庄城への通り道である前田家の城・府中城に寄りました。そのとき、勝家は、恨み言など一切言わず、湯漬けを所望して、利家に長年の親交を感謝したというエピソードが残っています。(このときの勝家さんは、すごくかっこいいです。)
 
秀吉との和睦後、利家は先鋒として勝家の城「北ノ庄城攻め」を行います。勝家が降伏した後には、その助命を願い出ましたが、それは許されませんでした。
 
その後、豊臣政権下でも、五大老の1人として、最期まで豊臣家を支えました。

 

前田家の子孫

 

 
前田利家とまつの間には、全部で11人(2男9女)の子供がいました。
側室との間の子供も、7人(異説あり)いたといわれます。
 
加賀藩は幕末まで続き、その後、華族の侯爵家となりました。
藩主の血筋は、現代も続いています。
現在、第18代前田家当主は、前田利祐氏です。
 
そして、子沢山で用心深い前田家ならではのことなのですが、3代目の藩主・利常の息子の代には加賀の他、富山藩・大聖寺藩・七日市藩を分家が統治し、それぞれの子孫が今も続いています。
 
近年の前田家の家訓や武士らしい考え方を知るには、現当主の叔母にあたる故・酒井美意子さんの著書を読むとよくわかりますよ。
 
前田家の姫で、従兄の元播磨姫路藩主の酒井家に嫁いだ人です。
マナーや着付けの先生などをして精力的に活動し、著書も多く残しています。
武家のお姫様として育った最後の世代の方ですよ。
 
私は、この人のマナー系の本や「ある家族の昭和史」などが、すごく好きなんです。
興味のある方は、是非ご一読ください。おススメです。

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まとめ


 
前田利家の特徴を、最後にまとめました。
信長、秀吉に仕え、外様となった徳川の世になっても家を守り抜き、加賀百万石前田家の礎を築いた偉大な人だと思います。(*‘∀‘)
 
● 「槍の又左」と異名を持つ
 
● 長身美形で信長に気に入られていた
 
● 短気で喧嘩早いのが短所
 
● 美しく聡明な妻の「まつ」も有名
 
● 加賀百万石の当主となり子孫は今も続いている

 

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