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今回は平安中期の名工・三条(小鍛治)宗近の手による太刀、名物中の名物といわれる「三日月宗近(みかづきむねちか)」についてお伝えします。
 
 
「三日月宗近」は名だたる名物ぞろいの「天下五剣(てんがごけん)」の中でも最も美しい刀と称さる刀です。
 
 
現在、東京国立博物館に所蔵されていて、2018年の秋には、京都国立博物館「京のかたな」で展示が決定していますよ。
 
 
「三日月宗近」はそれを手にした者との逸話がたくさん残っています。史実としてどこまで正しいか謎ですが、それだけ歴史ロマンをかきたてる存在だということですね。

 
 

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「天下五剣」(てんがごけん)とは?

 

 
まずは、天下五剣(てんがごけん)の説明から・・・。
 
 
「天下五剣(てんがごけん)」とは、平安~室町時代に作られて現存する刀剣の中で、特に名刀と名高い五振りの名物の総称です。
 
 
でも、刀剣関係の古い書物の中に、はっきり「天下五剣」という名称が用いられたことはないんですよ。
 
 
8代将軍・徳川吉宗がまとめさせた「享保名物帳」の中に「名物」という記載はありますが、「天下五剣」という文字は、やはり記されていません。
 
 
つまり、これらは言い伝えによる「通称」なのです。でも、明治時代以降に活躍した刀剣研究家たちは、その著書の中で「天下五剣」の名称をよく用いています。
 
 
これらの五振りは、その由緒や伝来も考慮して選ばれているので、実戦的な武器として、また美術品としての価値のみで選ぶならこの通りにはならないともいわれます。
 
 
要するに、歴史ロマン込みでもっとも名物とされる五振りなのです。

 
 

1.三日月宗近(みかづきむねちか)
 
国宝・太刀:刃長80cm・反り2.7cm
銘:「三条」
作者:三条(小鍛冶)宗近
 
 
2.童子切安綱(どうじぎりやすつな)
 
国宝・太刀:刃長79.9cm・反り2.7cm・
銘:「安綱」
作者:安綱
 
 
3.大典太光世(おおでんたみつよ)
 
国宝・太刀:刃長65.75cm・反り2.7cm・
銘:「光世」
作:者光世
 
 
4.鬼丸國綱(おにまるくにつな)
 
御物・太刀:刃長78.2cm・反り3.2cm・
銘「國綱」
作者:國綱
 
5.数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)
 
重要文化財・太刀・刃長81.1cm・反り3.0cm・
銘「恒次」
作者:古青江恒次

 
 

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もっとも美しい刀剣「三日月」の誕生

 

 
「三日月」の作者・三条宗近は伝説の名刀工でした。「三日月」より1年ほど前に彼が手がけた「小狐丸」は、なんと稲荷明神のつかいの「狐」の協力で完成したという逸話が残っています。
 
 
これは能の演目「小鍛治」にもなっている不思議話です。
   
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「小狐丸」を一条天皇に献上してから約1年後、小鍛冶宗近の三条の鍛冶場から、再び鎚(つち)を打つ音が聞こえました。
 
 
宗近が新しい作刀にとりかかったのです。
 
 
今回の「相づち」は、1年前にはまだ少し未熟さが残っていた息子の吉家でした。彼はこの1年の間に成長し、父の相づちを務められるまでに成長していたのです。
 
 
それは鍛刀だけで五時間以上(四時間じゃ済まないようですよ)に及んだ渾身の作刀でした。
 
 
そうして、やがて白銀に輝く美しい刀身が誕生しました。
 
 
その刀身はかなりの細身で、大きな反りが美しい放物線を描いていました。そして、刃縁(はぶち)にそって「三日月形の文様」がいくつもかかり、光にかざすと三日月が浮かんでいるように雅に輝いたのです。
 
 
それを見て満足した宗近は、最後に「三条」と銘を切りました。(宗近の銘は「三条」と「宗近」の2種類ある)
 
 
この平安時代に生まれた美しい刀剣は、三日月の文様からいつしか「三日月宗近」と呼ばれるようになりました。
 
 
そして、ときの権力者たちの手を渡りながら、歴史の波にほんろうされていくことになるのです。

 
 

「三日月宗近」は無血の剣!?

 

 
後で述べますが、三日月はその後、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉など天下人の手を転々と渡りました。
 
 
なのに、三日月には「一度も人の血を吸ったことがない」という伝説が残っています。(異説あり)
 
 
作られたとき「試し斬り(罪人を使って斬れ味を確かめること)」はされていないので、もし使われたとしたら実戦・自刃などでしょう。
 
 
ただ、「三日月宗近」は反りが大きく長さの割に刀身が細い(←美剣と呼ばれる所以ですが)ので、実戦向きではありません。
 
 
つまり、武器としてはとても使いにくい、実用性の低い太刀なのだそうです。
 
 
でも、この美しさゆえ人の血を吸ったとは思いたくないという、後世の人々の願望から出た逸話なのかもしれませんね。

 

 

「三日月宗近」の主たち

 

 
次に「三日月」が大きく逸話で取り上げられるのは、室町幕府第13代将軍・足利義輝の時代です。
 
 
足利義輝は、代々の足利将軍の中で唯一といえる優れた武人でした。彼は「永禄の変」松永久秀、三好三人衆に討たれます。それは壮絶な戦いの末の最期だったと伝わりますよ。
 
 
剣豪将軍と称えられる義輝は、太刀(たち)を畳に数本突き立てて、それを次々に使いながら戦い、数十人の敵を斬り捨てたそうです。「童子切安綱」「鬼丸国綱」は実際そのときに使われました。
 
 
足利義輝は腰に「三日月宗近」を佩(は)いたまま戦いましたが、最期まで「三日月」を抜くことはなかったと伝わります。(美しかったからか実戦に不向きと判断したのかは謎)
 
 
足利義輝は、剣豪将軍の名にふさわしい刀剣コレクタ―でもありました。
 
 
「三日月宗近(みかづきむねちか)」(天下五剣)
「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」(天下五剣)
「大典太光世(おおでんたみつよ)」(天下五剣)
「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」(天下五剣)
「大包平(おおかねひら)」
「九字兼定(くじかねさだ)」
「朝嵐勝光(あさあらしかつみつ)」
「不動国行(ふどうくにゆき)」
「骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)」

 
 
などなど、数々の名刀を所持していました。「天下五剣」のうち四振りも所蔵していたんですね。
 
 
その後、「三日月宗近」は松永久秀から織田信長に贈られました。
 
 
「本能寺の変」の後は、秀吉の手に渡り正室の「ねね」山中鹿之助に譲りたいと申し出たという逸話も残っています。(異説あり)
 
 
ここから先は複数の説に分かれるのですが、鹿之助亡き後、豊臣家に戻され、そのまま天下を統一した徳川家のもとで保管されていたと思われます。

 
 

昭和の実業家が東京の骨董屋で「三日月」を発見!

 

 
明治時代になると、将軍家の財政は頻拍していきました。そして、換金の必要にせまられ、徳川の宝物たちが次々と売られて市場に出回るようになったのです。
 
 
また、太平洋戦争後には、GHQの刀狩りで多くの由緒ある刀剣がガソリンをかけて焼かれてしまいました。
 
 
そのときは、日本政府が日本刀の美術品としての価値を強く訴えたためGHQも見直しましたが、それまでに焼かれた刀剣の数は数十万振りにのぼったとも伝わります。
 
 
鎌倉時代の名工・来国俊の作・大太刀「蛍丸」(国宝)のように、GHQに没収されたまま行く方知れずになった国宝級の刀剣も数多くありました。
 
 
そんな状況をみかねたのが、「特殊鋼開発の父」と呼ばれる実業家の渡辺三郎という人です。
 
 
彼は美術品に造詣が深く、特に刀剣は幼少時から鍛冶職人の家にたびたび出入りしていたほど思い入れの強い目利きでした。
 
 
渡辺は今こそ日本刀の伝統を守らなければという強い使命感を持ち、毎日毎日骨董屋を渡り歩いていたのです。
 
 
1946年(昭和21年)のある日、渡辺が東京渋谷の骨董店に行くと、ひときわ美しい抜き身の太刀が目に入りました。
 
 
これは名だたる名刀に違いない直感した渡辺がそれを手にとると、そこには「三条」という銘が切られていたのです。
 
 
「まさか!」と思いその刀身を陽の光にかざしてみると、独特の月の波紋が浮かび上がったのでした。
 
 
それは、まぎれもない「三日月宗近」でした。
 
 
「三日月」はおそらく徳川家のゆかりの誰かの手で市場に売られ、そのまま約80年もの間、骨董屋や古道具屋をさまよっていたのです。
 
 
目利きの渡辺三郎の目にとまったのは、まさに奇跡のような出来事でした。
 
 
その後、「三日月宗近」は渡辺三郎の息子の手で、東京国立博物館に寄贈されました。日本刀の素晴らしさ、美しさを多くの人に見て感じてもらいたいと願う父・三郎の遺志によるものでした。
 
 
東京国立博物館の職員が「三日月宗近」を迎えに来たとき、渡辺家では「三日月」の晴れの旅立ちを祝って、能楽『小鍛治』の曲を流して見送ったと伝わります。
 
 

おわりに

 

 
歴史の荒波を乗り越えてきた日本刀は、ただの武器や美術品ではありません。そのときどきの持ち主の想いが伝わる歴史的価値のあるものです。
 
 
秋には京都国立博物館で、山城の国(京都)の名工に由来する名刀の特別展示会「京のかたな」展が開かれます。
 
 
小規模な刀剣の展覧会は日本各地でこれからも催されますので、興味をお持ちの方はぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょう?

     
 
 
【参考図書】

 

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