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こんにちは。
 
今回は、伏見稲荷明神の「狐」が鍛刀を手伝ったという伝説の名刀「小狐丸(こぎつねまる)」をご紹介します。
 
 
現在、失われている宝剣なのですが、能の『小鍛冶』として残る伝説の名刀です。

 
 

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天下の名工・三条宗近の四振りの刀

 

 
平安時代、一条天皇の御代に伝説の名工がいました。
 
 
その名は、三条(小鍛冶)宗近
 
 
宗近は77歳という長生きだったそうですが、長い間刀剣を作っていたはずなのに世に伝わるものはたったの四振りでした。
 
 
小狐丸、今剣(いまのつるぎ)、岩融(いわとおし)、そして、日本一美しい太刀といわれる三日月宗近(みかづきむねちか)です。
 
 
今剣は源義経の「守り刀」で、岩融は弁慶の「薙刀(なぎなた)」でした。この二振りは源頼朝が自刃に追い込まれた「衣川の戦い」のときに消失したと伝わります。
 
 
彼の作品の中で現存しているのは、「三日月宗近」だけ、「小狐丸」も残念ながら現在は行方不明なのです。
 
 
でも、伝説としてずっとずっと歴史と芸能の中に残っている名物なのでした。

 
 

美童に化けた「狐」が鍛刀を手伝った?

 

 
ある日、一条天皇は「都で評判の宗近に太刀を打たせるべし」という夢のお告げを聞きました。
 
 
それで、帝はさっそく橘道成という者をつかいに出して、都の三条に住む小鍛冶の宗近(むねちか)に太刀(たち)を作るよう命じたのです。
 
 
帝に献上するということで、宗近は是非とも傑作を生みだしたいと意気込みました。
 
 
でも、彼は大きな問題を抱えていたのです。それは、作刀の良い相づちがいないことでした。相づちというのは、刀匠を補佐して相対して槌を打ち下ろす助手のことです。
 
 
最高級の太刀を作るともなれば、自分と同じぐらいの高い力量を持った相づちが必要でした。
 
 
どうしようもなくなった宗近は、もう神頼みしかないと思い、氏神の伏見稲荷明神にお参りしたのです。
 
 
すると、誰もいない静かな境内で、ふいに背後から声をかけられました。宗近が振り向くと、そこには美しい童子が立っていました。そして童子は「私が相づちを務めますゆえ、ご安心なされませ」と言うのです。
 
 
宗近は、童子に相づちがいないことを言い当てられてびっくりしました。すると、その童子は宗近の返事を待たず、そのまますーっと木立の中に姿を消してしまったのでした。
 
 
それから数日後、宗近のもとに例の童子が現れ、「勅命の太刀、打つべきときがきたり」と言いました。宗近はその童子を受け入れ、共に作刀に取りかかりました。
 
 
「宗近がはったと打てば、神狐(しんこ)がちょうと打つ」
 
 
交互に打ち重ねる音が天地に響き渡り、ついに見事な刀剣が誕生したのです。
 
 
太刀が完成すると、童子は宗近にお祝いの言葉をのべ、そのままふわりと宙に浮いて雲に乗って山のかなたに消えてしまったそうです。

 
 

「小狐丸」伝説の誕生

 

 
完成した太刀は、帝に献上するのにふさわしい名物でした。
 
 
宗近は、相づちを務めてくれた童子が人ではなく稲荷明神の御遣いの「狐」の化身と確信していました。
 
 
それで、その刀の茎(なかご)の表に「小鍛冶宗近」と自分の銘を刻み、裏には「小狐」という銘を刻んだのです。
 
 
そうして彼は稲荷明神に深く感謝し、その太刀を「小狐丸」と名付けたのでした。

 
 
【注】「伏見稲荷大社」の画像を使ってますが、宗近が通った「稲荷明神」は伏見稲荷大社ではありません。(←よく間違われるので注意!)宗近が狐と出会ったのは、東山・南禅寺近くの「御百稲荷神社」です。今はウェスティン都ホテル京都の敷地内にあります。
 
 
そして、今「小狐丸」の聖地とされている「合鎚稲荷神社」は、この「御百稲荷神社」跡の近くにあります。粟田口派の聖地「粟田神社」も近いです。
 

「小狐丸」藤原頼長の元へ

 

 
一条天皇は宗近の「小狐丸」をたいそう気に入り、「守り刀」としてずっとそばに置いていたと伝わります。
 
 
しかし、彼は32歳の若さで崩御、その後「小狐丸」は有力公家のもとを転々とすることになります。
 
 
そうして、院政時代の摂政関白だった藤原忠実の手に渡り、その息子の藤原頼長に譲られたのでした。
 
 
藤原頼長は「保元の乱」で敗死してしまいましたが、彼も「小狐丸」を大切にし、神社に詣でるときやお祝いの席に「小狐丸」を佩刀していたと記録に残っています。
 
 
余談ですが、藤原頼長は、鵺(ぬえ)退治をした源頼政が近衛天皇から名刀「獅子王(ししおう)」を賜ったとき、直接手渡した人です。
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頼長の死後、「小狐丸」はその甥の九条兼実(かねざね)の手に渡りました。
 
 

建仁寺から盗まれ行方不明に!

 

 
九条兼実から次に譲り受けたのは、藤原氏から分家した初代の鷹司家当主・兼平でした。
 
 
それ以降、「小狐丸」は鷹司家で婚礼などのお祝いの席で佩刀(はいとう)されるようになりました。
 
 
しかし、3代目の冬平のとき、京都祇園の建仁寺に小狐丸を奉納したところ、何者かに盗まれてしまったのです。
 
 
鷹司家は明治時代になるまで「小狐丸」の捜索を続けたそうですが、残念なことにそのまま現在まで見つかっていません。

 
 

能の演目『小鍛冶』として今に伝わる

 

 
刀剣自体は失われてしまいましたが、「小狐丸」は伝説として『小鍛冶』という能の演目になり、今もずっと語り継がれています。
 
 
『小鍛冶』はかなり古い時代の演目で作者は不明なのですが、祝言性の高い「能」の傑作といわれる人気の演目です。
 
 
筋書が「小狐丸」の伝説の内容そのものなのでわかりやすく、「舞」の華やかな舞台です。「謡」もリズミカルで退屈させないので、初心者にもおすすめの演目ですよ。
 
 
今は失われてしまった刀剣ですが、このように語り継がれていることから本当に実在した不思議な刀だったのだと分かりますね。

 
 
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【参考図書】

by カエレバ

 

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