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ガイウス・ユリウス・カエサル
 
 
共和政ローマ末期の終身独裁官となったカエサルは、その名をその後の代々皇帝が引き継いだ古代ローマ最大の英雄でした。
 
 
彼の後継者オクタヴィアヌスもオクタヴィアヌスの後継者も、「カエサル」の名をついでいます。
 
 
見た目は頭のでっかいハゲのおっさんだった(といわれる)のに、軍事の天才、ガリアの英雄としてローマ市民の人気がすごかったカエサル。
 
 
政治家としても活躍した多才な人です。今回はそんなカエサルの人生をさらりとなぞっていきます。

 
 

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カエサルの出自は?

 

【出典元:Wikipedia】

 
カエサルは「第一回三頭政治」で政治権力を握りましたが、そのときのローマは「内乱の一世紀」でボロボロになってました。
 
 
まず、閥族派スラ平民派マリウスの戦いがあり、勝ったスラが同盟市戦争を治め、2人が死んだあと、スパルタクスの反乱がおこりました。
 
 
くわしくはこちらに!⇒「第一回三頭政治」とは?
   
 
ガイウス・ユリウス・カエサルは、平民派マリウスの甥っ子でした。名門ですが、かなり貧乏な貴族(パトリキ)の家に生まれてます。
 
 
だからどちらかというと、もともと反元老院、平民派の立場の人なのです。
 
 
彼は軍人であり政治家でした。
 
 
そして、古い体制で国をまとめられない元老院を抑えるため、前60年にポンペイウス、クラッススと密約して成立させたのが「第一回三頭政治」でした。
 
 
これは、反元老院同盟のようなものです。

 
 

三頭政治の崩壊とローマ内乱

 

【出典元:Wikipedia】

 
「第一回三頭政治」は、3人のうちの1人クラッススの死によって、あっけなく崩壊してしまいました。
 
 
パワーバランスが崩れてしまったんですよ。トップが2人になりそのうちの1人、ガリア遠征で大成功を治めたカエサルの名声がローマでどんどん高まっていったのです。
 
 
ポンペイウスは、それに危機感を覚えました。そして、彼はもともと敵対していた元老院と結んでカエサルを反逆者に仕立て上げようとしたんです。男のジェラシーは、えぐいですね。
 
 
それを知ったカエサルは武力行使にでます。「賽は投げられた」です。そして、戦いに敗れたポンペイウスは彼と仲の良かったエジプトに逃亡しました。
 
 
彼は助けを求めて逃げたんですけど、エジプトの宰相はカエサルのほうが強いとみなすや否や、ポンペイウスを暗殺してしまいました。
 
 
こうして、「第一回三頭政治」の当事者は、カエサルだけが生き残ったのでした。

 
 

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「賽は投げられた」で独裁へ

 

【出典元:Wikipedia】

 
ポンペイウスを追ってエジプトを訪れたカエサルのもとに、ポンペイウスの首が届きます。
 
 
カエサルは身内や知り合いに甘い人なのでかなりへこんだそうですが、ちょうどそのころ、エジプトからある贈り物が届きました。
 
 
それはくるくる巻かれた大きな絨毯(じゅうたん)でした。でも、その絨毯、やたらと重そうです。それをくるりと広げると、中から全裸の女が現れました。
 
 
さすがのカエサルもその女性の度胸と演出にビックリ仰天です。
 
 
これが有名なカエサルとクレオパトラとの出会いです。
 
 
クレオパトラは美人じゃなかったそうですが、メイク術と演出力が抜群でおまけに床上手、カエサルはその魅力にどんどんはまっていったといわれます。
 
 
実際には、どちらも頭の良い人なので、協力したほうが得だなと考えたのでしょう。2人とも政治家なので、純愛ではなく計算ずくですね。
 
 
カエサルはプトレマイオス朝エジプトの様子を直接見て、独裁者もいいもんだと思ったかもしれません。
 
 
そして、カエサルはクレオパトラと結婚し、ローマにもどりました。2人の間にはカエサリオンという息子がいます。「カエサルの息子」というそのまんまの意味の名前の子です。
 
 
前46年、カエサルは独裁官(ディクタトル)として権力を集中させ、そのまま前44年に終身の独裁官の地位につきました。

 

 

「ブルータスお前もか!」で暗殺

 

【出典元:Wikipedia】

 
絶好調のカエサルは、神格化できるほどの成果をもって本物の「王(皇帝)」になりたいと考えました。
 
 
これまで誰もできなかった「パルティア遠征」や「インド征服」という大構想を思い描き、それを実現した後「王」の座に就こうという野心を抱いたのです。
 
 
でも、カエサルが就任した「終身独裁官」というのは、これまでの共和制ローマの大原則に反する行為です。「王」などもってのほかなんです。
 
 
政治的なNG行為なんですよ。
 
 
さすがに力は弱まってましたが、元老院議員たちは暴走するカエサルを見過ごすわけにはいきませんでした。。
 
 
なんとか阻止ししなければ・・・・
 
 
そして、カエサル独裁に反対する人々が集まり、暗殺団を作って周到に準備を重ねたのです。
 
 
前44年3月15日、ついに元老院会議場でカエサルの暗殺が実行されました。
 
 
四方八方から短剣で刺されたカエサルは、その暗殺者の中に小さいころから目をかけていた側近ブルータスの姿を見た瞬間、「ブルータス、お前もか!」という言葉を残し抵抗をやめたと伝わります。
 
 
彼は30カ所以上短剣で刺され、かつての同志で滅ぼしたポンペイウスの像の足元で息絶えました。

 
 

やっぱりすごい!カエサルの業績

 

【出典元:Wikipedia】

 
ここでカエサルの政治家としての業績を見ていきましょう。
 
 
軍人としてはすごく才能のあった人ですが、ローマの市政でもいろいろ新たな試みをしていますよ。

★「ユリウス暦」(太陽暦)の制定
 
★市民権の拡大
 
★属州の民に市民権を与えてローマ正規軍に採用
 
★海外に植民市を建設して約8万人の無産市民を入植
 
★穀物配分を32万人から15万人に削減
 
★結社の禁止。労働者の3分の1は自由人にすること(反乱の防止)

 
他にも大都市ローマをより統治しやすい街にするため、都市計画を立てていました。戦争ばっかりしていたわけではないと分かります。
 
 

おわりに

 

 
カエサルを暗殺した元老院は、すでに統治能力を失っていました。
 
 
そして、次のローマの歴史を引き継ぐのは、カエサルの部下だった将軍アントニウスとカエサルの養子オクタウィアヌスです。
 
 
2人は我こそがカエサルの後継だと主張して対立しましたが、もう1人の将軍レピドゥスを加えて「第二回三頭政治」を成立させました。
 
 
ローマの政治的混乱は、まだしばらくの間続きそうですよ。

 
 

カエサルの簡単年表

 

 
・BC100年(1歳)とーまで誕生。平民派マリウスの甥。
 
・BC84年(16歳)
父カエサル(同名)が死亡。カエサルが家長に。
 
・BC83年(17歳)
スラの姪・コルネリアと結婚。神官の高位職・神祇官(じんぎかん)に就任。
 
・BC前81年(19歳)
義理の叔父スラに処刑されそうになり小アジアへ亡命。
 
・BC78年(22歳)
スラが死亡。ローマに帰還。
 
・BC73年(27歳)
ローマで軍団司令官に就任。
 
・BC60年(40歳)
「第一回三頭政治」成立。
 
・BC58年(42歳)
ガリアの属州総督に就任。
 
・BC51年(49歳)
ガリア全域を制圧、ローマの銘属州化に成功。
 
・BC49年(51歳)
ルビコン渡河。ローマ内戦開始。
 
・BC46年(54歳)
ローマにクレオパトラと息子カエサリオンを招く。
 
・BC44年(56歳)
終身独裁官に就任。
 
・BC44年3月15日
元老院議場で元老院議員の暗殺団により暗殺される。

 
 

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