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プトレマイオス朝エジプト最後の女王・クレオパトラ7世
 
 
カエサルとのドラマチックな出会いやロマンス、毒蛇に乳房をかませて自殺した最後など、ドラマチックな伝説の多い気になる女王ですね。
 
 
彼女の死は、プトレマイオス朝の滅亡を意味し、ローマの地中海性制覇を意味するものでした。
 
 
そういう視点でみると、クレオパトラがただ男を翻弄するだけの悪女ではなかったと分かるような気がします。

 
 

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弟と結婚し共同で玉座に

 

 
クレオパトラ7世は、紀元前69年にエジプトのファラオ(王)の王女として生まれました。
 
 
プトレマイオス朝はヘレニズム国家なので、彼女はエジプト人ではなくマケドニア系のギリシア人です。
 
 
当時はローマの勢力が東地中海に及び、プトレマイオス朝エジプトはその圧力に苦しめられていました。
 
 
プトレマイオス朝の王は兄妹(姉弟)で結婚し共同統治するという習わしがありました。愛人はそれぞれ別にいますよ。
 
 
その風習にならって、クレオパトラ7世は弟・プトレマイオス13世と儀礼的結婚をして、ファラオ(王)としてエジプトを共同統治していたのです。
 
 
でも、共同統治というのは、なかなかうまくいかないもんですよ。
 
 
とくに、クレオパトラが18歳で結婚したとき、弟はわずか10歳でした。そんな幼い弟の周りにそれにつけこむ宦官たちが集まり、クレオパトラが思うように政治に口出しできないように画策したのです。
 
 
そうして、クレオパトラは弟の取り巻き連中に、王宮から追い出されてしまいました。
 
 
なんとか権力を取り戻そうと、クレオパトラが起死回生を狙ったのが、カエサルに近づきローマの力を借りることでした。

 
 

カエサルとクレオパトラ

 

 
どうにかしてカエサルに会わねばと思ったクレオパトラが考えたのが、廷臣の目を欺くために「絨毯に巻かれて贈り物として届けられる」という策です。
 
 
このサプライズは見事に功を奏し、彼女はめでたくカエサルの愛人におさまります。(その後、妻になりました)
 
 
クレオパトラと出会ったとき、カエサルはちょうど「第一回三頭政治」が崩れ、ポンペイウスが逃亡先のエジプトで暗殺された後でした。ローマの最高権力者になったときです。
 
 
突然現れたクレオパトラは、肌をあらわにしたエジプトの最新流行ファッションに身を包み、全身にバラの芳香を漂わせていました。そんな彼女の魅力に、カエサルはたちまち虜(とりこ)になったと伝わります。
 
 
でも、実際は2人とも一国の長という立ち場なので、もっと冷静に計算していたにちがいありません。
 
 
クレオパトラは、カエサルに気に入られなければ自分はエジプトの女王に返り咲くことは不可能ですし、カエサルにとってはエジプトを手に入れるチャンスだったでしょう。
 
 
とはいえ、クレオパトラは教養のある賢い女性だったので、一緒にいて楽しい人だったようです。
 
 
そうして、ローマの力を借りたクレオパトラは弟と戦い、弟プトレマイオス13世は戦死しました。その後、彼女はもう1人の弟プトレマイオス14世と結婚し、エジプトの女王に返り咲いたのです。
 
 
再び弟と結婚したといっても、プトレマイオス朝の王家の決まりなだけなので、実際には彼女はカエサルの愛人でした。
 
 
そして、クレオパトラはカエサルとともにローマに凱旋します。そのときのパレードは素晴らしく華やかで、豪華なものでした。
 
 
2人の間にはカエサリオンという息子が生まれ、まさに我が世の春でした。
 
 
でも、それは長くは続きませんでした。それからわずか2年後、カエサルは「ブルータス、お前もか」で暗殺されたのです。(前44年)

 

 

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アントニウスとクレオパトラ

 

 
カエサルという大きな後ろ盾を失ったクレオパトラは、次の一手を考えます。
 
 
そして、「第二回三頭政治」の1人、アントニウスをターゲットに絞り近づきました。単純な武人だったアントニウスは、クレオパトラの妖艶な演出にコロリと落ち、2人は仲睦まじいカップルになりました。
 
 
やがて、2人は正式に結婚し3人の子供をもうけています。
 
 
ところが、これがローマで大きな問題になったのです。アントニウスは、もう1人のカエサルの後継者・オクタヴィアヌスの姉と結婚していたのですが、クレオパトラと結婚したいためにその女性を離縁しました。
 
 
そうして、クレオパトラにローマの一部の属州を治める権利を贈ろうとしたのです。
 
 
頭の良いオクタヴィアヌスは、これをプロパガンダに利用します。つまり「アントニウスがエジプトのふしだらな女・クレオパトラに虜にされて反逆者となった」と主張したのです。
 
 
そうして、アントニウス・クレオパトラ対オクタヴィアヌスの戦い「アクティウムの海戦」が起こりました。
 
 
この戦いは数ではアントニウス・クレオパトラ側がまさっていたのですが、クレオパトラがなぜか途中で逃げ出し、アントニウスもその後を追ったため、オクタヴィアヌスの圧勝に終わりました。

 
 

クレオパトラの自殺は未だに謎のまま

 

 
「アクティウムの海戦」に敗れたアントニウスとクレオパトラは、別々にアレキサンドリアに戻りました。
 
 
そして、アントニウスは、クレオパトラが自殺したという誤報を信じて自らの命を絶ってしまいました。
 
 
その後、クレオパトラは、なんとかオクタウィアヌスに助命を願おうと3度目の誘惑にのぞみを託しましたが、オクタウィアヌスはそれに応じず、彼女を監禁してしまいました。
 
 
彼女も、もう39歳になってました。
 
 
もはやオクタウィアヌスは籠絡できないと悟った彼女は、ローマで見せしめとして引き回され処刑されるよりはと、毒蛇に乳房を咬ませて自殺したと伝わります。(前30年)
 
 
でも、毒による自殺だったのかはいまだ謎なのです。彼女の死に方は毒によるものとは違っていたとも伝わります。あくまで言い伝えです。
 
 
毒蛇自殺説の出所はプルタルコスの『英雄伝』です。クレオパトラがいざというときのために毒蛇を飼っていて、その毒の効き目を死刑囚で実験していたと記述があります。でも、当時のエジプトでは、この手の実験は他の王もやっていたようなんですよ。
 
 
だから、別の方法で自殺した、また、他殺というのも考えられます。
 
 
いずれにせよ、見世物にならずにすんで本人はよかったでしょう。
 
 
オクタウィアヌスはなぜかそのときちょこっとだけ慈悲深くなり、彼女の遺言どおり、アントニウスの横に埋葬してあげました。
 
 
死後も寄り添いたいと願うあたり、やっぱり仲は良かったんですね。この2人。

 
 

プトレマイオス朝の滅亡

 

 
クレオパトラ7世の死をもって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。
 
 
ちなみに、2度目に結婚した弟プトレマイオス14世は、カエサルの死の少し後に暗殺されてます。おそらくクレオパトラの命でしょう。
 
 
「アクティウムの海戦」でエジプトが敗れた前31年は、アレクサンドリアの建設からちょうど300年目にあたる年です。
 
 
この海戦によって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ローマの地中海支配が完成したのです。
 
 
そしてまた、プトレマイオス朝エジプトの滅亡をもって、「ヘレニズム時代」は幕を閉じたのでした。

 
 

クレオパトラは悪女だった?

 

 
クレオパトラは「世界三大美人」の1人に数えられます。
 
 
「クレオパトラの鼻がもうすこし低かったら、大地の表面は変わっていただろう」(哲学者パスカル『パンセ』より)という有名な言葉も残すほどなのです。
 
 
でも、彼女が本当のいわゆる「絶世の美女」だったのかは謎ですね。
 
 
美女だったのは間違いないでしょうけど、どちらかというと、彼女は機転の利く教養豊かな明るい女性だったのでしょう。
 
 
クレオパトラは子供の頃からたいへんな勉強家で、医学や科学に通じ、7ヶ国語を自在に操る才女でした。
 
 
だから、見た目だけの美しさでなく、機転の利いた会話や行動力、人の心をとらえワクワクさせる話術などでカエサルやアントニウスを虜にすることができたのです。
 
 
斜陽を迎えたプトレマイオス朝最後の女王として、自分のすべてを投げうって国を守ろうとしたクレオパトラ。
 
 
彼女は悪女どころか、自分の運命に向き合い、精一杯戦い抜いた魅力あふれる女性だと思います。

 
 
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