この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。
こんにちは。
今回は、戦国時代に最強と言われた武田信玄の家臣で、特に名高い4人の武将「武田四天王」をご紹介します。
その4人の武将はこちらです!
↓
・山県昌景(やまがた まさかげ)
・馬場信春(ばば のぶはる)
・高坂昌信(こうさか まさのぶ)
・内藤昌豊(ないとう まさとよ)
では、この武田が誇る4人の武将の特徴について、それぞれ簡単にお伝えしていきます。
武田信玄については、こちらでお伝えしています。合わせてどうぞ♪
↓
山県昌景~元祖赤揃え
山県昌景(1529年‐1575年)は、武田家の家老だった飯富虎昌の20歳以上年の離れた弟でした。
信玄に取り上げられたのは兄のコネだったわけですが、めきめき頭角を現し文武両道の優れた武将になりました。
彼はとても小柄で、容姿はさえなかったそうです。でも、勇猛で智略にも富む文武両道の武将でした。
兄と姓が違うのは、理由があります。
兄の飯富虎昌は、信玄の嫡男・武田義信が父に反旗を翻したとき、義信についたのです。そして、晴信と同じく飯富虎昌も謀反の罪で切腹させられました。
弟の昌景が裏切者として生きていくのは忍びないだろうという信玄の配慮で、姓を「山県」に変えたのでした。
そうして、山県昌景はこの事件をきっかけにして、それまで兄・飯富虎昌が率いていた「赤備え」(甲冑などの武具を赤や朱を主体とした騎馬軍団)を引き継いだのです。
山県昌景が率いる「赤備え」は武田の最強部隊で、周辺国にそ名をとどろかせていました。
武田氏が滅んだあと、武田の「赤揃え」は「徳川四天王」の1人、井伊直政に継承されました。
また、元武田家家臣の真田信繁(幸村)も「赤備え」の部隊を編成し、「大坂夏の陣」では徳川軍にその強さを見せつけています。
山県昌景は、1575年の「長篠の戦い」で壮絶な最期を遂げました。
馬場信春~不死身の鬼美濃
馬場信春(1514年‐1575年)は甲斐国の土豪・武川衆の馬場氏出身です。武田信玄の父の信虎の時代から武田氏に仕えました。
馬場信春の特徴は、何よりも実戦で強かったことです。
その生涯で70回以上のもの血で血を洗う壮絶な戦いに参加し、かすり傷一つ負わなかったという伝説の持ち主です。
「三方ヶ原の戦い」では、徳川軍を浜松城下まで追い詰める功績をあげていますよ。
信玄の信任厚かった信春でしたが、その息子の勝頼とはしっくりいかなかったようです。
勝頼は甘く見られたくなかったのか、老臣たちのアドバイスを受け入れない姿勢が目立ちます。
馬場信春の最期は、山県と同じく1575年の「長篠の戦い」でした。織田徳川連合軍に対し、武田軍が大敗を喫した戦いです。
でも、なんとしてでも主君・勝頼の命は守らねばなりません。
馬場信春は敗軍の殿軍(しんがり)を務め、織田軍と戦いました。そして、勝頼を逃がすことに成功し、自らは討死したのです。
高坂昌信~信玄の愛人だった?イケメン武将
高坂昌信(527年‐1578年)は、豪農(農民)の子として誕生しました。
父が亡くなった後、姉との遺産相続の争いに敗れて姉夫婦に邪険にされてしまいます。その後、武田信玄が若い彼を近習に取り立てました。
この人は「高坂弾正」の呼び名で知られる武田きってのイケメン武将ですよ! 歴史ドラマでもイケメン俳優が演じる役どころです。
ちなみに別名を春日虎綱、幼名は春日源五郎(源助)という武田信玄のお気に入りの少年でした。
信玄から彼宛ての熱烈な直筆ラブレターが見つかっています。
武田信玄は手紙魔の伊達政宗と違って手紙が苦手な武将だったと伝わるので、これはかなりレアなことですよ。
信玄の手紙で現存するものは、ほとんどが戦国大名や家臣にあてた公的文書でした。そんな中、彼が愛人の少年に浮気を疑われその釈明をしている手紙が見つかったのです。
でも、最近はこの手紙の相手は別人だったかもしれないといわれてます。(手紙があるのは確実)
ま、いずれにせよこの高坂昌信、とにかく男性にも女性にもモテモテで「逃げ弾正」との異名があるのも、女性に追いかけられるからだとよく誤解されます。
本当は「撤退戦に強い武将」という意味でこう呼ばれたのです。戦は退き方がとても難しいです。彼はこの退却時の指揮官としての戦術が見事だったのです。
彼は信玄の時代から息子・勝頼の時代までずっと、上杉氏との折衝を任されていました。
そのため1575年の「長篠の戦い」には参戦せず、「武田四天王」の中で唯一この戦いで戦死しなかった人でした。
その後も昌信は北条氏政や上杉謙信との外交折衝を担当しました。
そして、1578年、上杉景勝との同盟交渉中に海津城で病気で亡くなりました。
武田に伝わる「甲陽軍鑑」(武田の戦略・戦術を記した軍学書)は、高坂昌信(春日虎綱)が口述したものを部下の子孫が書きとめたものと伝わりますよ。
内藤昌豊~設楽原での壮絶な最期が伝説に
内藤昌豊(1522年‐1575年)は、武田家重臣・内藤昌豊の次男です。でも、父の工藤虎豊は信玄の父・信虎に諫言をし、怒りをかって殺されてしまいました。
その後、内藤昌豊ら子供たちは生活に窮し、苦労の多い生活を強いられたと伝わります。
信玄が家督を継ぐと、内藤昌豊は呼び戻され、再び武田氏に仕えることができました。
内藤昌豊の特徴は、四天王の中で最も知略に優れていたところ、そして、武田信玄から一度も「感状」を受け取らなかった(ほしがらなかった)ことです。
当時の武将は活躍すれば、主君から「感状」を受け取りました。それは非常に名誉なことだったのですが、彼は武田氏のために尽力するのは当然と考えていたので無欲だったのです。
内藤昌豊が亡くなったのは1575年、山県昌景、馬場信春と同じく「長篠の戦い」でした。
彼は設楽原で織田徳川連合軍と激戦を繰り広げ、織田の鉄砲隊が作った3番目の防御柵を唯一突破した部隊の指揮官でした。
討死した彼の体には多くの矢と竹槍が刺さっていたそうです。智将と知られた人でしたが、武将らしい壮絶な最期でした。
おわりに
「武田四天王」についてお伝えしてきました。
彼らは武田氏が最大の勢力を誇った時代の勇将です。そして、全員が信玄亡き後、勝頼にも仕えました。
武田家が滅亡した最大の要因は「長篠の戦い」の完敗だったといわれます。
「武田四天王」のうち3人がこの戦いで命を落としていることから、これが原因で武田氏が弱体化したのは間違いないでしょう。
4人とも武田氏の滅亡を見ることなく亡くなりましたが、それは彼らにとって、せめてもの救いだったでしょう。
【関連記事】
↓