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こんにちは。
1582年、甲斐の名門・武田氏が滅亡しました。
戦国最強と呼ばれた武田信玄の死からわずか9年後のことでした。
あまりにあっけない最期でした。
武田家滅亡の理由は、以前は後継の武田勝頼が愚将だったといわれていましたが、知れば知るほど勝頼は難しい時代に生きたと分かります。
当時のパワーバランスを見極めるのは至難の業です。
外交の失敗、特に織田信長に完全に戦略負けしたのは確かですが、もともと正嫡でなかった勝頼に家臣をまとめる求心力がなかったのは、彼のせいではなく信玄のせいともいえます。だからと自分の死を3年隠せと言ったのでしょうけど。
今回は、武田が孤立する原因となった2つの大きな勝頼の判断ミスに注目し、武田家滅亡を考えます。
痛恨の判断ミス?「御館の乱」
「長篠の戦い」の敗戦から2年、1578年に隣国の越後で上杉謙信が死没し、後継ぎ争いが起りました。それが「御館の乱」です。
家督を争ったのは、上杉謙信の甥・上杉景勝と、北条からの養子・上杉景虎でした。
勝頼は北条家と同盟を結ぶために、北条家の娘を正室に迎えていました。本来なら「親北条」の立場なはずです。
ところが、この隣国の家督争いの際、勝頼は北条氏政の実弟でもある上杉景虎の支援に失敗し、あろうことか景虎を破った景勝と同盟を結んだのです。
これ、かなりまずいですよ。
当然、北条氏政はムカついて、武田との同盟を破棄しました。(もともと信玄の代のときは仲悪かったですし)
当時のパワーバランスを考えるとこれはピンチです。
武田の周りには、上杉の他、北条、織田、徳川がいます。(今川はすでに弱体化)
敵の敵は味方、北条が織田・徳川と仲良くなったらヤバイということは、当時であっても分かるのではと思うのですが・・・
織田徳川連合軍に一度大敗しているのに、背後から北条に襲われてはさみうちされたらおしまいですよ。
この北条氏との同盟破たんが、実はその後、大きな影響を及ぼしていくのです。
それが具体化したのが「高天神崩れ」でした。
「高天神崩れ」
武田と北条の同盟が崩れた=パワーバランス崩壊は、周辺国にとってはチャンスです。
これに目をつけたのが織田信長と徳川家康です。
武田が北条氏と関東をめぐる争いを繰り広げるようになったのを好機ととらえ、1581年、駿河(静岡)の徳川が「高天神城」に攻めてきたのです。「高天神城」は、もとは武田勝頼が徳川から奪った城でした。
そして、徳川は「高天神城」を封鎖し、城内への食糧供給を断ちました。兵糧攻めです。
この城に残っていた兵は、ずっと武田に付き従っていた有力な国衆たちでした。多勢に無勢、もちろん城主の岡部元信は武田勝頼に援軍を要請しました。
ところが、勝頼は高天神城に援軍を出さなかったのです。
勝頼が援軍を出さなかったのは、
・北条氏に背後をとられるのを警戒したから
・家臣団に反対されたから
・うまく運びつつある信長との和平交渉に水を差すから
などの理由がささやかれています。
援軍を出せなかったともいえますが、でも、何をおいてもこのとき勝頼は援軍を出すべきだったのです。(後付けだけど)
いずれにせよ、これで「勝頼が高天神城を見捨てた」という事実が確定したのでした。
そして、それを予見していた人がいました。
織田信長です。
信長の和平交渉は、武田に「高天神城」へ援軍を送らせないための策略でした。和平にもちこむと言って時間稼ぎをしていたのです。
それを見抜けなかった勝頼の敗北です。名軍師がついていたら、気づいたかもしれませんけど・・・。
信長は、徳川家康に「高天神城が降伏を申し出ても受け入れないように」と申し付けていました。
当時、降伏すれば受け入れるのが普通だったので、これは残酷です。でも、このとき残酷と思われたのは、信長ではなく彼らを見捨てた勝頼でした。
なぜかというと、信長が勝頼に対するネガティブキャンペーンを行っていたからです。
勝頼は忠義の家臣を見捨てた!
高天神城の兵は見殺しにされ全滅!
そんな主君にまだ仕えるの?
次はお前かもしれないよ!
しかも、勝頼って「朝敵」なのだ!(←とどめ!)
もともと勝頼と家臣の間の信頼関係は信玄と違ってうす~いものでした。
そんなとき、この強烈なプロパガンダを出されたのです。
武田家に仕えていた国衆の心を動かすにはじゅうぶんです。
そして、確かに高天神城は生き地獄と化したのでした。
徳川による「封鎖」で食糧供給を断たれ、約半年で城内の兵糧が尽きました。
救援を依頼しても勝頼は援軍を出してくれません。
餓死者が出だしてもう限界なので、降伏を申し出たけど却下されました。
もうどうすることもできません。
城主・岡部元信は、もはやこれまでと討死を覚悟しました。そして、残った数百の兵とともに城から出て徳川軍に突撃したのです。
結果は玉砕、「高天神城」はこうして織田徳川軍の手に落ちたのです。
戦いの後、徳川軍が城に入ると、城兵の大半が餓死していたそうです。
武田氏の威信が致命的に!
「勝頼が援軍を出さなかったせいで高天神城の者たちは見殺しにされた!」
城兵たちの凄惨な死に様は、信長のかっこうの宣伝材料になりました。(そのためにこういう殺し方をしたんだけど)
戦死した者たちの多くは、武田家に忠義を尽くした有力な国衆たちでした。
勝頼は信長の策略に見事にかかり、「高天神城」だけでなく「武田家の威信」を失ってしまったのです。
城を取り戻すことは力さえあればできますが、「人との信頼」や「名声」はいったん失われるとばん回するのは至難の業です。
「高天神くずれ」で、勝頼の評判は堕ちるところまで堕ちてしまったのでした。
それから先は、ころがり落ちるだけ、ボロボロボロボロ裏切者が続出しました。(もちろん織田・徳川の切り崩し工作あり)
特に、有力な国衆・穴山梅雪と木曾義昌の裏切りは致命的でした。
でも、当時の考え方では、弱い者が領民を守るために強い勢力につくのは当然です。それに、勝頼のほうが先に彼らの信頼を損ねていますから・・・
そうして「高天神城」陥落の翌年、武田勝頼はわずか40名ほどの共の者たちと東の山へ落ち延び、追手に見つかって自害したのでした。
おわりに
こうして武田氏は1582年に滅亡しました。
でも、わずかその後4ヶ月足らずで「本能寺の変」が起こり、織田信長が明智光秀に討たれました。
めまぐるしい世の中です。
武田の家臣たちは、その後、真田家のようにどの国につこうかとかじ取りが大変でした。
信長は武田の落ち武者に厳しく落ち武者狩りをしましたが、徳川家康は多くの武田の家来をこっそり家臣に迎え入れています。
武田の騎馬隊「赤揃え」とそのノウハウも手に入れて、後に徳川四天王の1人・井伊直政にその部隊を任せたのです。
そうして、「武田の赤揃え」を引き継いだ井伊直政が、「井伊の赤鬼」と恐れられるようになったのでした。
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