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こんにちは。
 
武田信玄といえば、戦国最強!?
甲斐の名門、清和源氏の血を引く甲斐源氏の一族です。
 
 
武田信玄は、実は子だくさんでした。
 
 
武田家は、信玄の次の代で滅亡してしまいました。
 
 
「他にもっとましな子はいなかったの?」
「子孫は今も生き残っているの?」
 
 
などなど、気になる武田の血筋についてお伝えしていきます。

 
 

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意外と多い?武田信玄の子供たち

 

 
武田信玄は認知している子供だけ数えると、全部で12人いました。
 
 
男の子7人・女の子5人です。

 
 

(1)7人の息子たち

 

★武田義信→正嫡だったが謀反の罪で自害
 
■武田竜芳(海野信親)→盲目のため出家
 
・武田信之→西保家を継いだが早世
 
★武田勝頼→諏訪家を継いだが後に武田家当主に
 
・仁科盛信→高遠城で戦死
 
・葛山信貞→武田滅亡時に自害
 
■武田信清→米沢武田家へ

 

(2)5人の娘たち

 

・黄梅院→北条氏政正室
 
・見性院→穴山信君正室
 
・真竜院→木曾義昌正室
 
・松姫→織田信忠の婚約者
 
・菊姫→上杉景勝正室

 
武田信玄の子供で重要なのは、★印の嫡男だった武田義信と実際に後継になった武田勝頼でしょう。
 
 
ということで、この2人についてお伝えします。

 
 

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(1)武田義信~後継に相応しかった嫡男

 

 
武田義信は今川義元の勧めで信玄の正室となった公家の三条夫人との間の息子です。武田信玄の嫡男として生まれました。
 
 
13歳の元服の際には今川義元の娘を正室として迎え入れ、さらに将軍義輝から「義」の一字をもらい「義信」と名乗りました。
 
 
また、教育係の「傅役(もりやく)」は譜代の家老・飯富虎昌でした。
 
 
つまり、義信は由緒正しい血統の嫡男、天下の今川が後ろ盾、後見人は譜代家老、そして、本人も「川中島の戦い」などで武功をあげている、非の打ちどころのない正嫡だったのです。
 
 
この人が、普通に後を継いでいたらどうなったでしょうね。でも、謀反の嫌疑を父からかけられ失脚、自害してしまいました。
 
 
信玄にとっては父子のトラブル再びという感じです。つまり若い頃、自分が父にしたのと同じクーデターを息子にやられそうになったのです。
 
 
ただし、こちらは信玄のほうが一枚うわ手で、未遂に終わりました。
 
 
この義信による謀反嫌疑は「義信事件」と呼ばれますが、大きな原因は今川家に対する父子の姿勢の違いにありました。
 
 
「桶狭間の戦い」で今川義元が敗れた後、信玄は今川氏と距離を置こうと考えました。でも、義信は今川から正室を迎えており「親今川」だったのです。
 
 
そんなこんなで、飯富虎昌をはじめとする側近80名が処分され、義信は寺に幽閉となり、その2年後の1567年、自害に追い込まれました。
 
 
できる息子だったからこそ、そのまま放置できなかったのかもしれません。

      ↓


 

(2)武田勝頼~諏訪家の母を持つ信玄の4男

 

 
義信廃嫡の後、信玄が一応、自分の後継ぎとして認めていたらしいのは、4男の勝頼でした。
 
 
正室・三条夫人の産んだ男子は、次男が盲目で3男は早世したため、その次に回ってきたのが元敵方の諏訪家の娘を母に持つ勝頼だったのです。
 
 
勝頼は信玄が亡くなった後、後を継ぎます(正嫡は勝頼の息子の信勝)が、武田の周りには上杉、北条、織田、徳川という力のある国がせめぎ合っていたのです。
 
 
勝頼は始めはうまくいっていたのですが、1575年の「長篠の戦い」で完敗、その後、兵力は挽回できたのですが、上杉、北条への外交政策がことごとく裏目に出てしまいます。
 
 
そうして、織田、徳川、北条を敵に回してしまったのでした。(北条を敵に回したのが致命的)
 
 
おまけに、籠城して援軍を待っていた「高天神城」を(信長の計略ですが)見捨ててしまう形になり、甲斐の国衆からの信頼を失ってしまったのです。
 
 
信用が失墜するということは、敵側に寝返る人が増えるということにつながります。
 
 
そうして、どんどん家臣が寝返り、命運が尽きたのでした。
 
 
「長篠の戦い」といい「高天神城の攻防戦」といい、信長の智略に負けたというのがよく分かります。
 
 
でも、後付けのダメだしはいくらでもできますが、その当時、パワーバランスを見極め乗り越えていくのは、とても難しいことだったでしょう。
 
 
ものすごく切れる軍師がいたら、また違っていたかもしれませんが。
 
 
そうして、四面楚歌になり最終的に「長篠の戦い」から7年後に、武田家は滅亡してしまったのでした。

 
 

武田信玄の子孫は健在?

 

 
武田家の末裔は、果たして健在なのでしょうか?
 
 
信玄の子孫がいるとすれば、下の■の印の子供に限られます。その他の子供は武田滅亡時に自害または殺害されているからです。
 
 
つまり、次男の武田竜芳(海野信親)か七男の武田信清の子孫です。

   ↓   ↓

★武田義信→正嫡だったが謀反の罪で自害
 
■武田竜芳(海野信親)→盲目のため出家
 
・武田信之→西保家を継いだが早世
 
★武田勝頼→諏訪家を継いだが後に武田家当主に
 
・仁科盛信→高遠城で戦死
 
・葛山信貞→武田滅亡時に自害
 
■武田信清→米沢武田家へ

 
 

(1)高家武田氏

 
次男の竜芳(海野信親)の子孫は、武田遺臣の大久保長安の庇護を受け、その後、江戸時代に柳沢吉保の力添えで500万石の高家旗本になりました。
 
 
「高家」というのは、儀式や典礼を司る家です。この高家武田氏が幕末まで続き現代にも末裔がいます。
 
 
ただし、柳澤家から養子・信明が入ったことで竜芳の嫡流血統は途切れました

 
 

(2)米沢武田氏

 
 
一方、七男の信清は異母姉の菊姫を頼って上杉景勝の家臣となりました。
 
 
この系統は会津から米沢時代を経て幕末まで続き、米沢武田氏として現代も存続しています。
 
 
ただし、こちらも途中で養子が入ったことで、正当な血統は途絶えています。

 
 

まとめ

 

 
山梨県が研究を重ね、正式な武田の子孫は「高家武田氏」と認定しました。
 
 
その高家武田氏の16代当主が武田邦信さんという方で、甲斐の国大使や武田神社の崇敬会総裁を兼任しているそうです。
 
 
高家武田氏が正当とされた決め手は、高家武田氏が信玄菩提寺の恵林寺で代々施主として信玄の法要を行っていたからだそうです。
 
 
ちょっと理由がうーーーんという感じですね。
 
 
ま、いずれにせよ、結論は「武田の末裔は存在する、ただし嫡流は途絶えた」ということでしょう。
 
 
血は薄くつながっているけど、Y遺伝子は途切れているということです。

 
 
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