この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。


 
徳川家康の生母、於大の方についてご紹介します。
 
 
息子・家康が幼いころに生き別れ、再開した後に兄を殺されたエピソードが有名です。
 
 
波乱万丈な人生でしたが、たくましく戦乱の世を生き抜く強さのあった女性のように思えます。

 
 

スポンサーリンク

知多の豪族・水野氏の娘

 

 
於大(おだい)の方は1528年、尾張知多半島の緒川城主・水野忠政とその妻・お富との間に生まれました。
 
 
水野氏は近隣の豪族たちと勢力争いをしつつ、西を織田氏、東を松平氏に挟まれていました。
 
 
また、駿府の今川氏も尾張、三河を狙っていました。
 
 
水野氏は松平氏との間に姻戚関係を結んでいたので、水野忠政の妻は松平氏ゆかりの娘でした。
 
 
しかし、松平氏と争いごとが起りその妻を離縁することになります。そして、後妻として迎えられたのが、吉良氏の家臣で大河内氏の養女だったお富(於大の母)でした。

 
 

母との離別

 

 
松平の本家・松平清康が、なぜか水野忠政の妻・お富を自分の妻にしたいと言い出しました。
 
 
その理由は、お富がとても美しかったから、水野と松平との間の争いの講和条件だったからなど諸説ありますが、本当のところはわかっていません。
 
 
それどころか、この2人の年の差などを考えると、この婚姻そのものを疑問視する研究者もいます。
 
 
ただ、分かっているのはこの申し入れによりお富は松平氏の元に行き、娘の於大は緒川城に残されることになったということです。

 
 

スポンサーリンク

松平氏の弱体化

 

 
お富と離縁した水野忠政は、本拠地の知多半島で勢力を拡大するため、嫡男はじめ子供たちをつぎつぎと政略結婚させていきました。
 
 
一方のお富をめとった松平清康は、徳川家康の祖父で、松平氏が「徳川」になるきっかけを作った人物でもあります。
 
 
彼は12歳で家督を継いだ後、わずか10年ほどでで山中城、岡崎城を攻略して三河をほぼ統一し、尾張にも侵攻していきました。
 
 
しかし、1534年、清康は尾張森山攻めの陣中で家臣の阿部正豊(弥七郎)に殺害されてしまい、あっけなく25歳の生涯を閉じたのでした
 
 
清康暗殺の裏にいたといわれる松平信定はこの混乱に乗じて岡崎城をのっとり、10歳の甥・松平広忠(清康の嫡子)を伊勢に追い落としてしまいました。
 
 
この「森山崩れ」という事件をきっかけに松平家は弱体化し、今川の傘下に入って生き残ることになりました。
 
 
その後、お富は周辺豪族と再婚を繰り返しましたが、いずれも死別します。
 
 
そして、最後は敦賀の今川義元のに庇護され、出家して「源応尼」と号しました。

 
 

松平広忠と結婚

 

 
1537年、松平広忠が今川義元の助けをかりて岡崎に帰還することに成功、その翌年には信定が死去しました。
 
 
水野忠政は嫡男と娘を織田派と縁組させていましたが、今川とも縁を結んでおこうと考え、於大に白羽の矢を立てます。
 
 
そうして、1540年、13歳になった於大は松平広忠の正室として嫁ぐことになったのです。
 
 
1543年、於大は岡崎城内で男子を出産しました。それが、松平竹千代、のちの徳川家康です。

 
 

松平広忠と離縁

 

 
1543年、織田と松平(今川派)の間でバランスをとっていた於大の父、水野忠政が死去しました。
 
 
後を継いだ兄の水野信元は織田派だったので、松平広忠を援助してくれた今川と敵対関係になってしまいます。
 
 
今川氏の手前、このまま敵方の娘を正室にしておくのは危険と考えた松平広忠は、於大と離縁すると決めました。
 
 
こうして、於大は松平氏の嫡男だった息子・竹千代(のちの家康)を残して岡崎を去り、兄のいる刈谷城へ護送されたのでした。

 
 

久松俊勝と再婚

 

 
於大が実家に戻ったあと、松平広忠は織田に絞められ、1547年に岡崎城が落城します。
 
 
そして、息子・竹千代が織田へ人質として送られることになりました。
 
 
そして、於大は坂部城の久松利勝と再婚することが決定します。
 
 
松平と今川の連合に対抗するため、兄・水野信元が考えた政略結婚でした。
 
 
その2年後には、元夫の松平広忠が突然亡くなり、三河、尾張の争奪戦が激化していきました。
 
 
そして、今川の宰相・太原雪斎(たいげんせっさい)が織田から安祥城を奪い、城代の織田信広を生け捕りにします。
 
 
尾張にいた竹千代は、このとき織田信広と人質交換され、今度は今川の人質となり駿府に連れて行かれました。
 
 
すでに波乱万丈の幼年期ですが、於大の母・源応尼が、今川の庇護を受けて駿府で暮らしていたので、孫を養育したいという源応尼の願いが聞き入れられ、竹千代は祖母の元で養育されることになりました。
 
 
於大は久松利勝との間に3男4女をもうけます。
 
 
一方の竹千代は、元服して松平元康と改名し、今川の戦法として三河や尾張で伯父・水野信元とたびたび戦うことになりました。

 
 

息子・家康と再会

 

 
1560年、松平元康が19歳のときに転機が訪れます。
 
 
今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたのです。
 
 
このとき今川方で大高城に入っていた松平元康は、そのまま駿府へは戻らず混乱に乗じて岡崎城に帰還することに成功しました。
 
 
そして、元康は松平家康と名を変え、伯父の水野信元が仲介してくれて織田信長と同盟を結ぶことになったのです。
 
 
元康は於大の生んだ久松利勝の3人の子供たちに松平姓を与えて家臣とし、母とともに岡崎へ呼び寄せました。
 
 
こうしてようやく於大は息子・元康と共に暮らせるようになったのです。
 
 
しかし、1576年、於大の兄・水野信元が織田信長に謀反の疑いをかけられ、その命により家康に殺害されました。
 
 
この時、真相を知らずに家康の下へ水野信元を案内した久松俊勝はショックを受けて隠退してしまいます。
 
 
息子に兄を殺され、失望した夫が引退するという身内間の悲劇がまた起こってしまいました。

 
 

尼になって老後はゆったり

 

 
1588年、夫の久松利勝の死により、於大は61歳で剃髪し伝通院(でんづういん)と号しました。
 
 
その後は、高台院(ねね)とともに豊国神社を参拝したり、後陽成天皇に拝謁したりと徳川家のために外交にも尽くしました。
 
 
1602年、於大は伏見城を訪ねた折りに発病し、一月後に息子・家康に看取られながら75歳でなくなりました。
 
 
波乱万丈な人生でしたが、最後は穏やかな日々を過ごして長生きできたのならよかったです。

 
 
【関連記事】



スポンサーリンク