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こんにちは。
 
武田信玄といえば、織田信長や徳川家康にもビビられていたビッグな戦国大名。
 
 
「風林火山」「川中島の戦い」など名エピソードでも、よく知られていますね。
 
 
今回はそんな武田信玄の生涯についてザックリ簡単にご紹介します。
 
 
年表はこの記事の一番下にありますよ。

 
 

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名門に誕生するも父子不仲の血の因縁

 
 
武田信玄は、騎馬軍団、四天王など家臣に恵まれていたイメージがありますが、家庭運はなかったようです。
 
 
父と争って追放し、後に息子と争って自害に追い込んでいます。なかなかシビアな家庭環境でした。

 
 

(1)父親を追放して家督を奪った

 

 
武田信玄は1521年11月3日、甲斐の武田信虎と大井氏の娘との間に嫡男として生まれました。甲斐源氏は名門です。清和源氏を祖とする甲斐に根付いた源氏の一氏族でした。
 
 
でも、名門だからといって、この時代安泰というわけではけっしてありません。信玄が生まれた頃、甲斐は今川に攻められ混乱の最中にありました。
 
 
そして、彼は嫡男でしたが、弟の次郎(武田信繁)が生まれると、次第に父の寵愛は弟に移り、信玄は疎まれるようになっていったそうです。
 
 
母親が自分の手元で育てた次男を偏愛するはよくあることですが、信玄の場合は父親がそうだったんですね。
 
 
16歳で元服して第12代将軍・足利義晴から「晴」の一字をもらって「晴信」と称しました。そして、左大臣・三条公頼の娘・三条夫人を正室に迎えました。(始めの妻は死没したので二番目の妻です)元服の歳が初陣だったとも伝わりますよ。
 
 
1541年、21歳のとき、彼は父の信虎を追放して武田の当主になりました。
 
 
父・信虎が駿河国へ行ったとき、信玄は家臣とともに国境を封鎖して信虎が帰国できないようにしたのです。息子がクーデターを起こして家をのっとったわけですね。
 
 
戦国時代は、父子間の殺し合いなんて珍しくありません。でも、信玄の場合は、何の因果か息子との間でもそれが繰り返されたのでした。

 
 

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(2)義信事件で嫡男を粛清

 

 
上杉謙信との「川中島の戦い」が終わったころから、信玄と嫡男・武田義信の父子関係が悪くなっていったと伝わります。
 
 
大きな対立があったというより、外交政策での意見がことごとく親子で違っていて、だんだん義信の不満が高まっていったと考えられています。
 
 
1565年、義信は父・信玄から謀反の嫌疑をかけられ、甲府東光寺に幽閉されました。このとき家老の飯富虎昌はじめ義信に加担したと思われる家臣が信玄によって処刑されています。
 
 
飯富虎昌は、後の武田四天王の1人山県昌景の年の離れた兄でした。
 
 
2年後、義信は幽閉されたまま自害しました。信玄が死に追いやったのです。つまり、父とも子とも家督争いをしているんですね、この人。
 
 
そして、次に当主となったのが、側室で元敵方の諏訪氏の娘が生んだ勝頼だったのです。
 
 
勝頼の代で甲斐の名門・武田氏は滅亡してしまいました。

 

 

武田信玄の3つの戦い

 
 
次に外交ですが、戦国時代は外交というより戦いが中心になります。
 
 
武田信玄が当事者となった代表的な3つの戦いについて、簡単にお伝えします。

 
 

(1)砥石崩れ(1550年)

 

 
「砥石崩れ(といしくずれ)」は、武田信玄が信濃を平定する際に、村上義清と戦った合戦の俗称です。
 
 
兵力において圧倒的優位だった武田軍が村上軍に敗退し、1000人以上の兵を亡くした戦いでした。(武田軍7000、村上軍が500人)
 
 
信玄が戦国最強と呼ばれるのは指揮官としての能力の高さ、「勝率の高さ」ゆえなのですが、この村上義清との戦いは2回とも敗退しています。

 
 

(2)川中島の戦い(1553年~)

 

 
「川中島の戦い」は、武田信玄と上杉謙信との間で行われた信濃北部をめぐる戦いです。
 
 
この戦いは、1553年から1564年までの間に合計5回行われました。でも、はっきり勝敗がつくことはなく、結果的に両者は和睦しています。
 
 
単に「川中島の戦い」と言う場合、特に激戦となった第4回の合戦を指すことが多いです。この第4回の合戦では、信玄の弟・武田信繁や名軍師・山本勘助など、多くの武将が討死しました。
 
 
「川中島」の合戦については、こちらでくわしくお伝えしています。ご一緒にどうぞ♪

    ↓


 
 

(3)三方ヶ原の戦い(1572年)

 

 
「三方ヶ原の戦い」は、武田信玄が上洛途中に三河に侵攻した徳川家康との戦いです。
 
 
上洛は将軍・足利義昭の要請に応じたものでした。遠征途中にもかかわらず、信玄は約2時間で圧勝しました!
 
 
徳川家康の家臣は「三河武士」と呼ばれる屈強な軍と知られていましたが、戦国最強と呼ばれる「武田騎馬隊」の前では太刀打ちできなかったのです。
 
 
この戦いは、徳川家康の生涯の危機の1つに数えられています。家康が「本気で死ぬ」と思った戦いでした。
 
 
徳川家康に圧勝した後、武田信玄はさらに織田信長と激突する一歩手前まで進みました。
 
 
でも、陣中で喀血し体調を崩してしまったのです。そうして、侵攻をあきらめ甲斐国に戻る途中、亡くなりました。(享年51歳)

 
 

武田信玄の内政

 
 
武田信玄は、治水工事をして川の氾濫をおさめ、植林を行って領民が暮らしやすくなるよう内政にも積極的に取り組みました。
 
 
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
 
 
どれだけ城を強固にしても、人心が離れてしまえば世の中を治めることはできません。信玄が領民に慕われ家臣から信頼されていたのが、この言葉からうかがえます。
 
 
戦国大名として非情な面はあったでしょうけど、基本は人を大事にし、信頼し合える関係を築きたいと願っていたのでしょう。

 
 

(1)「信玄堤」を築き洪水を防いだ

 

 
甲斐は四方を山に囲まれた山間の国です。海がないので、「川」が水と魚(たんぱく源)を得るための生命線でした。
 
 
でも、甲斐を流れる「笛吹川」と「釜無川」はたびたび氾濫を起こし、治水工事をする必要があったのです。
 
 
治水が整うと新田が増えるので、米の産出量が大幅に増加するという利点もあります。
 
 
武田信玄は「治水工事」「新田開発」を同時に進めるために、「信玄堤」と呼ばれる堤防作りに取り組んだのでした。
 
 
「信玄堤」は河川の氾濫を防ぐ堤防ですが、同時に川の流れを変えて水源を作る役割もありました。
 
 
「信玄堤」が完成したことで、食糧事情が改善されたのは間違いないのです。

 
 

(2)合議制の導入

 

 
戦国時代の政治は、基本的に大名による「独裁制」でした。
 
 
「独裁制」は非常時には機能しやすい統治体制ですが、トップが無能だった場合、内政が破綻して家臣の不満が爆発し、下克上を引き起こすことがよくありました。
 
 
信玄は「独裁制」よくないと考えていたようです。
 
 
彼は父の信虎を追放するクーデターの作戦時から合議制を導入して、家臣の声に耳を傾けました。
 
 
そうして、重臣たちに議題についての意見を述べさせた後、信玄がみなの意見をまとめて、できるだけ全員が納得できる決定を下したそうです。
 
 
この合議制の導入は、武田の家臣を団結させ繁栄していく原動力になりました。

 
 

武田信玄の簡単年表


 
・1521年(0歳)
甲斐国(山梨県)の守護・武田信虎の嫡男として誕生。
 
・1536年(16歳)
元服。武田晴信と称する。
三条の方と結婚。2年後には嫡男の武田義信が誕生します。
 
・1541年(19歳)
父・信虎を駿河国へ追放。
→武田家の当主に就任。
 
・1542年(20歳)
諏訪領侵攻。
→諏訪地方を平定。
 
・1547年(25歳)
「甲州法度之次第」を制定。
→家臣団の統制、治安などの規則を定めた法
 
・1548年(26歳)
「上田原の戦い」
→北信濃の豪族・村上義清に敗北。
「塩尻峠の戦い」
→信濃国守護・小笠原長時に勝利。
 
・1550年(28歳)
小笠原領へ侵攻。信濃国中部を制圧。
「砥石城攻略」失敗(砥石崩れ)
 
・1551年(29歳)
真田幸隆(真田幸村の祖父)の策略で砥石城を落城。
 
・1553年(33歳)
「第一次川中島の戦い」。
 
・1554年(34歳)
北条氏・今川氏との間で「甲相駿三国同盟」締結。
 
・1559年(38歳)
出家。
これ以降「信玄」と呼ばれる。
 
・1561年(41歳)
「第四次川中島の戦い」。
→北信濃の地を制圧。
 
・1565年(45歳)
「義信事件」
→嫡男・義信の謀反
義信は幽閉され2年後に自害。
 
・1568年(48歳)
徳川家康と共に駿河の今川領に攻め込み、この地を平定します。
 
・1572年(52歳)
「三方ヶ原の戦い」に勝利。
 
・1573年(53歳)
病状が悪化。
甲斐国へ帰路途中に病没。
 
 
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