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こんにちは。
 
 
「フランス革命」について、これまでマリーアントワネット中心にお伝えしましたが、今回は「革命」と「フランス社会」に焦点を当ててサラッと流れをみていきます。
 
 
フランスは、太陽王ルイ4世時代に絶対王政全盛期を迎えました。
 
 
でも、その頃からの戦争や豪奢な内政でフランスの国庫は緊迫していき、ルイ16世が即位したころには、社会のいたるところで「矛盾」が生まれてたのです。
 
 
ルイ16世が即位した前年に「アメリカ独立戦争」のきっかけ「ボストン茶会事件」が起こりました。
 
 
このアメリカ独立戦争の思想に強い影響を受け、フランスでもいよいよ大きな変革期が訪れようとしていました。
 
 
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アンシャンレジーム(旧体制)への強い反発

 

 
フランス革命を一言でいうと、こうなります。
 
 

王権(特権階級の権力)がめっちゃ強かったフランスで、その特権制度(旧体制)を打破しようとしたブルジョワ階級主導の革命

 
 
つまり、革命の「原因」は、これまで特権階級に搾取され続けていた低い身分の者の不満がたまりにたまっていたことでした。
 
 
旧体制に反旗を翻すほどのパワーの源は、アメリカ独立戦争の影響やルソーの啓蒙思想がブルジョア階級に広まっていたことでした。ブルジョワとは平民の中の富裕層のことです。
 
 
フランス社会のそれまでの旧体制を「アンシャン・レジーム」と呼びます。
 
 
そして、当時のフランスは大きく3つの身分に分かれていました。(実際にはその中でまた細かく分かれています)

 
 

◆第一身分(聖職者)

 
 
フランス総人口の約0.5%の特権階級。
上位層は貴族出身者が多く、領土を持つ領主でもあった。

 
 

◆第二身分(貴族)

 
 
フランス総人口の約1.5%にあたる特権階。
多くは領土を持つ領主。

◆第三身分(平民)

 
 
フランス総人口の残り98%
 
フランス国民の大部分を占めるので、富裕層から貧困層まで様々。
 
大きく市民と農民に分けられた。
都市部の商工業者の一部が富裕層に、でも政治参加は一切認められなかった。
 
「富裕層=ブルジョワ資産家」が革命を主導していった。

 
 

フランス革命の流れ

 

 
フランス革命は、国家の体制が下の方からくつがえされたのでとても複雑です。
 
 
その階級は、国王、貴族、都市部ブルジョア(資産家)、都市部労働者、地方農民などに及び、それぞれが自分たちの主義主張を訴えたので、ごちゃこちゃです。
 
 
議会を見ていくと混乱するので、今回は「事件」を中心にその流れをおっていきます。
 
 
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■「三部会召集」~革命前夜!

 

 
財政難に陥ったフランスで、ルイ16世はテュルゴーを財政総監に命じて財政改革を行わせました。でも見事に失敗し、テュルゴーは辞職します。
 
 
次に財務改革担当に任命されたのが、ネッケルでした。彼は特権階級にも課税しようという案を出したので、市民の人気が高かったのです。
 
 
ルイ16世は、ネッケルのこの案に賛同し実に174年ぶりとなる「三部会」徴集を決定します。(1789年5月)
 
 
でも、「三部会」は身分制議会でした。投票方式が平等ではなかったのです。その投票の仕方で、特権階級と第三身分が激しく対立し意見はまとまりませんでした。
 
 
このころすでに、第三身分が特権階級に従わなくなってますね。

 
 

■「球戯場の誓い」~第三身分立ち上がる!

 

 
「三部会のような不平等な議会はいらん!」ということで、第三身分の議員たちは、勝手に新しい「国民議会」という議会を作りました。
 
 
そして、本当の国民のための議会は「国民議会」だと言って「憲法制定までは絶対解散しない!」と宣言しました。
 
 
これが「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」です。
 
 
これに対して、特権階級(国王・貴族)は武力で押さえつけようとします。そして、第三身分に人気が高かったネッケルもクビになったのでした。

 
 

■「バスティーユ牢獄襲撃事件」・フランス革命勃発

 

 
国民議会を武力で弾圧しネッケルをクビにしたことに反発したパリの民衆たちは、1789年7月、市民軍を組織して武器を奪い、バスティーユ牢獄を襲撃しました。
 
 
この事件が「フランス革命」のはじまりとされます。
 
 
これをきっかけにして、農民たちの暴動が全国へと広がり、貴族たちが教われるようになったのです
 
 
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■「ヴェルサイユ行進」~パンをよこせと主婦が怒りの行進!

 

 
さらに、この年の10月、パンの値上げに苦しむパリの女性を中心とした市民約7000人が、ヴェルサイユへ行進し宮殿の中まで乱入する事件が起こりました。
 
 
パリからヴェルサイユまで、徒歩なら結構時間がかかりますよ。たくましいです。
 
 
主食の値上げ、主婦中心ということから、当時すでにパリではすさまじいインフレにみまわれていたとわかります。
 
 
ルイ16世ら一家はパリのテュイルリー宮殿へと移され、革命派の監視下に置かれることになります。
 
 
この事件をきっかけに、国王家族はヴェルサイユからパリのテュイルリー宮殿に移され、ルイ16世はフランス人権宣言を承認しました。
 
 
マリーアントワネットは、テュイルリー宮殿では革命派の監視下に置かれていましたが、まだまだ贅沢三昧な暮らしができました。

 
 

■「ヴァレンヌ逃亡事件」~国王一家フランスから逃亡→失敗

 

 
1791年6月、テュイルリー宮殿で監視されていたルイ16世一家は、王妃マリーアントワネットの実家オーストリアへ逃亡を企てます。
 
 
これがヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるものです。
 
 
この逃亡は失敗に終わり、国王一家はパリに連れ戻されました。
 
 
そして、この事件後、国民のルイ16世への信頼は失墜したのです。

 
 
 

■「八月十日事件」~とうとう王権停止に!

 

 
1792年、フランス立法議会はオーストリアと戦争を起こしました。フランス各地から集まった義勇軍の働きがありましたが、オーストリアとプロイセンの連合軍相手に苦戦します。
 
 
そんな混乱の中で、8月10日、義勇軍がパリの民衆とともに国王のいるテュイルリー宮殿を襲ったのです。
 
 
この事件で、立法議会は王権を停止させて立法議会を解散し、「国民公会」の招集を決めました。
 
 
そうして、ついに王政が廃止され、男子普通選挙が認められ、フランス初の共和制が樹立しました。(第一共和政)
 
 
この事件を機にサン=ジュストが政界入りします。

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■「国王ルイ16世処刑」~フランス全土が大混乱に!

 

 
国民公会の議決で国王ルイ16世の処刑が決定しました。
 
 
国王処刑を受けてイギリスの首相ピットは、革命が他国に飛び火しないようにと「第一回対仏大同盟」をヨーロッパ各国と結びました。
 
 
こうしてフランスはヨーロッパ中を敵に回すことになったのです。そして、「ヴァンデーの反乱」などの農民反乱が各地で起こりました。
 
 
国民公会の一派、ジャコバンクラブ(山岳派)は、これらの混乱に早急に対処しようと「独裁政治」を行うようになりました。まずは対立派のジロンド派を、ついで右派のダントン派を粛清していったのです。
 
 
その国民公会の委員会の1つ、公安委員会の指導権を握っていたのがロベスピエールでした。

 
 

■「テルミドール9日のクーデタ」~ロベスピエール処刑!

 

 
ジャコバンクラブの独裁も長くは続きませんでした。
 
 
1794年テルミドール革命歴7月9日、ロベスピエールらは反対派のクーデターにより逮捕され、翌日処刑されました。
 
 
これが「テルミドール9日のクーデタ」です。
 
 
こうして、ジャコバンクラブの独裁は終了しました。

 


 
 

ナポレオンの台頭へ突き進む!

 

 
1795年、国民公会は「1795年憲法」という新憲法を制定して解散されました。そして、新たな政治体制として「総裁政府」が始まりました。
 
 
しかし、社会は混乱し人々は不安にさいなまれました。
 
 
そんな中、国民の人気を集めだしたのが、ナポレオン=ボナパルトという1人の軍事指導者でした。彼は国内の反乱を鎮圧し、イタリア遠征で名を上げます。
 
 
「総裁政府」への信頼が失われ、フランスの国民は強い指導者を待ち望んでいました。
 
 
そんなとき、ナポレオンは、エジプト遠征からこっそりフランスに戻り、クーデタを起こしたのです。
 
 
それが「ブリュメール18日のクーデタ」です。
 
 
このクーデターで、ナポレオンは総裁政府を倒し「統領政府」を樹立します。
 
 
「統領政府」は実質的にはナポレオンの独裁政権でした。
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こうして、フランス革命は終わりました。
 
 
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