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こんにちは。
 
 
今回は、「革命の大天使」「死の天使長」の異名を持つフランス革命期の政治家・革命家をご紹介します。
 
 
彼の名前はサン=ジュスト。
 
 
フルネームは、ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュスト(1767年ー1794年)です。
 
 
その美貌とロベスピエールも引くほどの冷徹さを持ち合わせた、フランス革命が生んだ仇花です。
 
 
国王ルイ16世を処刑すべしという演説をしたことで有名な人ですよ。

 
 

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サンジュストの生い立ち

 

 
サン=ジュストは農民出身の軽騎兵隊大尉の息子として、フランス中部のニヴェルネ州で生まれました。
 
 
1788年、21歳のときランス大学法学部に入学し、1年もしないうちに「学士号」を取得しました。
 
 
でも、若い娘と恋愛不祥事を起こし、1789年にはワイセツな風刺歌「オルガン」を書いて、伝統や王権の批判する問題行動を起こしまました。
 
 
当時「ワイセツ」文書に認定されたのは、現代の単純なエロとは違って権力や国王への批判を転嫁するようなものが多かったのです。
 
 
当然「オルガン」は発禁処分となり、逮捕状が出されたサン=ジュストは逃亡しました。
 
 
読書好きだった彼は、その後ルソーの啓蒙思想に強く感化され、同じ想いを持つロベスピエールにあこがれて熱烈な手紙をしたためました。
 
 
1791年には「革命及びフランス憲法の精神」を発行し、フランス革命の最も若い理論的革命家と呼ばれるようになりました。
 
 
1792年、サン=ジュストは25歳で最年少の国民公会議員となり、国王裁判で、あの有名な「国王を処刑すべし」という「演説」を行って、政治の表舞台にデビューしたのです。
 
 
1793年には「公安委員会」に入ってロベスピエールの片腕としてジャコバンクラブ独裁を確立し、革命に貢献しました。
 
 
「テルミドールの9日のクーデタ」の前には、ロベスピエールと意見が分かれ、袂を分かとうとしていたとも言われます。
 
 
彼の最後の演説はクーデタで反対派に妨害されて果たせず、翌日、ロベスピエールと共に処刑されました。享年26歳。

 
 

サンジュストの容姿は?

 

 
サンジュストは、「革命の大天使」と呼ばれるほど美しい人だったそうです。
 
 
「中性的な」「両性具有的な」と表現されるタイプの美しさです。
 
 
でも、中身は鋭利な刃物のように冷酷な毒舌家で、潔癖で苛烈な思想を持つ革命家でした。
 
 
始めはルソーの啓蒙思想に傾倒していたロベスピエールを心酔していましたが、だんだん革命の現実が理想からはなれていくと、ロべスピエールをも冷めた目で見ていたように思えます。

 
 

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ロベスピエールとの出会い

 

【ロベスピエール】

 
ロベスピエールとその片腕だったサン=ジュスト。
 
 
この2人が出会ったきっかけは「ルソーの啓蒙思想」に傾倒したという共通点です。
 
 
サン=ジュストはパリに行く前にロベスピエールに手紙を送り、1790年頃からは文通でお互いの考えを伝え合っていました。
 
 
サン=ジュストにとって、ロベスピエールは始めは「神」のような存在だったのかもしれません。
 
 
彼はロベスピエールの思想をほめたたえ、ロベスピエールもサンジュストの潔癖で未熟な魂に衝撃を受け「奇跡のようだ」と深い友情を感じました。 
 
彼らが直接会ったのは、サンジュストが政界入りした1992年8月10日の革命の後です。

 

 

国王裁判での伝説の演説

 

 
1992年9月、25歳になったサン=ジュストは、最年少で国民公会議員に当選しました。
 
 
パリにやって来たサン=ジュストを、ロベスピエールは大歓迎します。そうして、彼はジャコバンクラブ(山岳派)に入り政治家として歩むことになったのです。
 
 
11月13日、国王ルイ16世の裁判に際し、サン=ジュストは「国民公会」で初めて、そして後に伝説となる演説を行いました。
 
 
それは、国王と王権に対する決定的な転換点となった演説といわれます。
 
 
議員たちが国王を何の罪で裁こうかと思案していた中、サン=ジュストは、国王は裁くのではなくただ罰するべきなのだというびっくりの主張をしたのです。(なんだかんだいって、当時、国王は特別敬意を払われる存在でしたから)
 
 
「国王の裁判などする必要はない。ただ殺すべきものだ」
 
 
「国王を裁くべき法はない。国王自ら法を破壊してしまったのだから」

 
 
「王政は永遠の犯罪だ」
 
 
この独創的な発想は、議会の人々を驚かせました。
 
 
彼は「国王は罪なくして君臨できない」社会契約の外に立つものと言い切ったのです。
 
 
つまり、君主制そのものを弾劾したのです。
 
 
こうして、サン=ジュストは一躍時の人となり、その思想は国王の処刑に大きな影響を及ぼしました。

 
 

サン=ジュストの最期

 

【テルミドール9日のクーデタ】

 
「恐怖政治」が革命を腐敗させていきました。革命で混乱した社会は、もはや誰にも制御できないものとなっていったのです。
 
 
民衆は革命に疲れ果て、「清廉の士」と持ち上げていたロベスピエールを、「独裁者」とののしるようになりました。
 
 
ロベスピエールは自分の理想と現実の社会が離れていくのを、自分の力のなさと受け止め強い葛藤を感じていました。
 
 
一方、サン=ジュストは、革命そのものに絶望し、ロベスピエールにも失望し、冷めた目で事の成り行きを見ていたような気がします。
 
 
「社会は粛清されなければならない。粛清を妨げる者は社会の腐敗を欲する者であり、社会を腐敗させる者は社会の破滅を欲する者なのだ」
 
 
潔癖で危うい鋭さを持つサン=ジュストの理想の社会は、生臭い人間の社会で達成できるものではなかったのです。彼の厭世的な絶望は宿命のようなものでした。
 
 
サン=ジュストは苛烈な思想を持ちながら、なぜか静かな印象のある人です。
 
 
「テルミドール9日のクーデタ」で演説を遮られ逮捕されたときも、彼はまったく抵抗しなかったそうです。
 
 
そして、革命裁判にかけられないままクーデタの翌日、彼はロベスピエールら同志と共にギロチンで処刑されました。
 
 
断頭台に上るとき、処刑を待つロベスピエールに向かって小さく「adieu(アデュー)」と言ったのが、彼の最期の言葉でした。
 
 
「adieu(アデュー)」というフランス語の「お別れの言葉」は、軽い言葉ではありません。軽いさよならは「au revoir(オルボワール)」です。
 
 
「adieu(アデュー)」は永遠のお別れを告げる言葉、「A」は「~に」で「dieu」は「神」、「神のもとで再び会いましょう」という意味の言葉です。

 
 
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