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今日は個人的に興味があり過ぎてヤバイぐらいのフランス革命時の死刑執行人・シャルル=アンリ・サンソンをご紹介します。
 
 
サンソンはけっして歴史の表舞台には登場しない人物です。
 
 
彼はパリで代々死刑執行人(ムッシュ―・ド・パリ)を勤めていた家の4代目で、フランス革命時のパリでギロチンにかけられた人のほとんどの死刑を執行した人でした。
 
 
その数、2700人とも3000人ともいわれます。(諸説あるので正確な数はわかりません。)
 
 
でも、彼はそんなブラックな仕事に熱意をもってのぞむ変態ではなく、淡々と職務をこなすサイコパスでもありませんでした。
 
 
サンソンは心優しい穏やかな人で、国王ルイ16世を崇拝する王党派の熱心な死刑廃止論者だったのです。
 
 
そんな苦悩の多かったサンソンの生涯についてお伝えします。

 
 

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忌み嫌われた「死刑執行人」という職業

 

 
死刑執行人は、死罪のある国家では必要な職業でありながら誰もがすすんでやりたがらない職業です。
 
 
合法とはいえ直接人を殺めるのですから、精神的なストレスは相当なものでしょう。
 
 
シャルル=アンリ・サンソンフランス全土の死刑執行人の頭領「ムッシュードパリ」の息子としてパリで生まれました。
 
 
彼らは代々処刑人を家業としていて「死神の父子(おやこ)」と人々に忌み嫌われた一族でした。
 
 
「処刑人」を家業にする彼らのような一族は、他の人々から忌み嫌われ、同業種としか対等な立場で付き合うことができませんでした。
 
 
シャルルル=アンリ・サンソンはパリの処刑人「4代目ムッシュー・ド・パリ」、2人の弟は、それぞれトゥールーズの処刑人、ブロアの処刑人になりました。そして、妹マドレーヌ=ガブリエルは、別の地方の処刑人と結婚しました。
 
 
サンソンが幼い頃、父親が学校に通わせたいと思い商人のつてでルーアンの寄宿舎に入れてもらいました。でも、ムッシュ―・ド・パリの息子とバレてしまい、学校にいられなくなったのです。
 
 
級友からの嫌がらせやいじめ、保護者からの苦情と退学願いが殺到して学校を追い出されたのでした。パリに戻った彼を受け入れてくれる学校は、どこにもありませんでした。
 
 
人道的な処刑道具ギロチンが発明されるまで、フランスでは数々の残酷な処刑法がとられていました。
 
 
罪の重さによって、また身分によって処刑方法は区別されていましたが、ひどいものは拷問のあげく車裂きの刑など残忍極まりない処刑法もあったのです。
 
 
そんな刑罰を執行するのが仕事だったサンソン家が人々に恐れられ嫌われたのは、当然だったでしょう。
 
 
でも、その代償に彼ら一族は、少なくともフランス革命以前までは、貴族のような裕福な暮らしができたのでした。
 
 
そして、人の解体をすることから、彼らはもう1つの特技を身につけたのです。

 
 

副業で「医師」をしていたサンソン家

 

 
当時のフランスの死刑執行人は、死体の保管も行っていました。サンソン家の人々は死体を解剖する経験が豊富で、様々な研究をしていたのです。
 
 
処刑人は死刑以外の拷問の刑罰も行っていたので、数をこなすうちに人間の身体のどこをどこまで傷つけてると死ぬか、どこを傷つけると後遺症が残らないかなどが分かるようになっていたのでした。彼らは事細かに実験し、その詳細を手記に記録して残しました。
 
 
一族にサイコパスが現れたら、こういう実験・研究はすごく進歩しそうですね。人道的な人は精神的なストレスがひどくてやってられないと思います。
 
 
サンソン家の記録から「身体に穴を開ける刑罰」の場合、どの部分に穴を開けるとダメージが少なく後遺症が残らないかなど、ことこまかに研究していたと分かっています。
 
 
「ムッシュ―・ド・パリ」の手で刑罰を受けた人間は、その後、存命率が高く後遺症も残りにくかったそうです。
 
 
彼ら一族は、なぜか自分が刑罰を執行した罪人の治療を行っていたそうです。
 
 
そう、彼らは処刑人でありながら、人を救う医師としての仕事も行っていたのです。
 
 
実際、彼らの収入の大部分は医師としての収入だったともいわれます。
 
 
シャルル=アンリ・サンソンは、子孫のためにくわしい「医学書」を書き上げました。
 
 
サンソン家の医学は、当時のヨーロッパの正式な医学とはまったく異なるものでした。彼らは人々に避けられため学校に通えず、病気になっても医師に診てもらうことができなかったのです。
 
 
だから、正式な学校教育はほとんど受けていません。医学の知識も自分たちの経験に基づく独自のものだったのです。
 
 
呪術的な怪しい医術と恐れる人も多かったようですが、実際には医者にさじを投げられた貴族の患者を何人も救ったと伝えられます。

 
 

人道的な処刑装置ギロチンの登場

 

【出典元:Wikipediaギロチン】

 
フランス革命で有名になった断頭台ギロチンは、2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間にうつぶせに寝かせた罪人の首を切断する装置です。
 
 
実際にギロチンが採用されたのは1792年から1982年まで、ちょうどフランス革命の恐怖政治の時代とかぶっていました。
 
 
ギロチンが開発される前のフランスでは平民は絞首刑、貴族は斬首刑を執行されるのが主流でした。
 
 
斬首の場合、首切り人の腕が未熟だったら一撃で死ぬことができず、苦しみのたうち回って目も当てられないホラーな最期を遂げることも多かったのです。
 
 
また、「車裂きの刑」など残虐な死刑方法が残っていたため、それをやめさせようと民衆が死刑執行をはばむ事件も起こりました。
 
 
その事件を受けて、ルイ16世はもっと人道的な処刑道具を作るべきだと考えギロチンが発明されたのです。
 
 
ギロチンによる処刑は、失敗するおそれがなく一瞬で死ねるので、人権が尊重される人道的な処刑法でした。

 
 

便利で人道的な道具だったがゆえの悲劇

 

【出典元:Wikipediaギロチンの復元】

 
ギロチンは簡単に人の命を奪える画期的・人道的な道具でした。でも、皮肉な事にそれが恐怖政治による粛清を加速させるのに役立ってしまったのです。
 
 
ギロチンで死刑執行された人々の多くは、毅然とした態度で粛々と断頭台に向かいました。
 
 
唯一ともいえる例外が、ルイ15世の愛妾だったデュ・バリー夫人です。
 
 
【関連記事】ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人とは?
 
 
彼女はいろんな男性のもとを渡り歩いていたゆかいな浮かれ女だったのですが、実はサンソンの「元カノ」でもありました。(お互い遊びだったとお思うけど)
 
 
彼女は断頭台の上で、泣いてサンソンに命乞いをしました。その悲愴な姿があまりにも哀れで耐えられなくなったサンソンは、刑の執行を息子に変わってもらってます。
 
 
デュ・バリー夫人は恐ろしさのあまり泣き叫び、最後の瞬間まで集まった群衆に慈悲を乞い続けたそうです。
 
 
そのときサンソンが手記に書き残したのがこの言葉でした。

   ↓

「処刑されるみんながデュ・バリー夫人のように泣き叫んで命乞いをすればよかったのだ。
そうすれば、民衆もその事の重大さに気付き、恐怖政治はもっと早く終わっていただろう」

 
 
国王ルイ16世
王妃マリーアントワネット
罪のない貴婦人たち
ダントン
ロベスピエール
サン=ジュストら多くの革命の志士たち

 
 
みんな最期に人間の尊厳を見せようと、毅然とした態度で断頭台に立ちました。かつての斬首刑のように。のたうち回る見苦しい姿を民衆に見せることなく死んでいったのです。
 
 
サンソンは彼らがそんな態度だから死刑の悲惨さが民衆に伝わらず、恐怖政治による処刑が長引いたのだと思ったのでした。
 
 
実際に、当時のフランスでは「ギロチン鑑賞」を楽しむ人々がいたそうです。古代から公開処刑は一種の娯楽だったので、とくに不思議な話ではありません。

 
 

敬愛する国王ルイ16世を死刑に

 

 
サンソンは国王ルイ16世と面識があり、ルイ16世の穏やかで気取らない人柄を尊敬していました。
 
 
また、サンソンだけでなく、多くの民衆からルイ16世は好かれていました。国民の憎しみを一身に受けていたのは王妃マリーアントワネットです。
 
 
それでも、議会でわずかの票差で国王ルイ16世の死刑は決まってしまいました。
 
 
処刑前夜、サンソンは一睡もできなかったそうです。敬愛する国王陛下をその手にかけるのですから。
 
 
誰か陛下を救いに来ないだろうか、死刑執行の決定がくつがえされないだろうか・・・
 
 
そんなサンソンの望みが叶う事はありませんでした。
 
 
1793年1月21日、ルイ16世はコンコルド広場で処刑され、サンソンはその王の血の流れる首を民衆の前に高く掲げたのでした。

 
 

死刑制度の廃止がサンソンの「夢」だった

 

 
恐怖政治による死刑の増加により、サンソンにはどんどん心的ストレスがたまっていきました。
 
 
そうして、次第に彼はめまいや幻覚、耳鳴り、手の震えなど心身症に悩まされるようになってしまったのです。
 
 
それでもそれが彼の仕事だったので、彼は処刑を続けました。4代目サンソンが死刑執行したのは、実に3000人以上といわれます。(統計により異説あり)
 
 
彼は死刑執行人という仕事が嫌で嫌で仕方がありませんでした。もともと職業選択の自由がありません。ムッシュ―・ド・パリの息子に生まれたという宿命がすべてでした。
 
 
サンソンは死刑執行の前に罪人たちに優しい態度で接したため、遺族から感謝されることも多かったそうです。
 
 
死刑執行を決定した政治家・革命家たちが次々とギロチン送りになったあの混乱の時代、サンソンを処刑しろという声はまったく上がりませんでした。
 
 
サンソンは何度も「死刑廃止の嘆願書」を提出したのですが、それが採用されることはありませんでした。
 
 
死刑廃止を夢にまで望んだのは、「死刑制度が廃止になることが、唯一自分が死刑執行人という職から解放される手段だから」と、後に彼は手記に残しています。
 
 
シャルル=アンリ・サンソンが引退できたのは、恐怖政治が終わった翌年のことでした。
 
 
彼の願いは生前叶えられることはありませんでしたが、彼の孫の時代、6代目サンソンの時代にフランスは死刑制度を廃止しました。
 
 
サンソンの孫は死刑執行人を罷免されてから先祖の手記を集め「回想録」を記しました。それがフランスでベストセラーになったそうですよ。
 
 
死刑執行人の知る死刑の裏事情なんて、確かにおもしろすぎます。
 
 
サンソンが主人公のものは、こちらの漫画が秀逸ですよ! 最近のフランス革命物の中でもダントツでおもしろいです。

   ↓

 
 

サンソンの簡単な年表

 

 
・1739年2月15日
シャルル=アンリ・サンソンが「ムッシュ―・ド・パリ」(死刑執行人)の家に生まれる。
 
1754年
父が病で倒れる
→15歳で死刑執行人代理に。
16歳で最初の処刑を執行。
 
1757年3月27日
フランス最後の「八つ裂きの刑」を執行。
 
1765年
マリー・アンヌ・ジュジェと結婚。
 
1767年
息子アンリ・サンソン誕生。
 
1769年
息子ガブリエル誕生。
 
1778年
父が正式に死刑執行人を引退。
サンソン「ムッシュ・ド・パリ」の称号を叙任する。
 
1792年4月25日
最初のギロチンによる死刑執行。
 
1793年1月21日
ルイ16世の死刑執行。
 
1793年10月16日
マリーアントワネットの死刑執行。
 
1794年7月28日
ロベスピエール、サン=ジュストらの死刑執行。
 
1795年
死刑執行人を引退。
→息子アンリが「ムッシュー・ド・パリ」を引き継ぐ。
 
1806年
皇帝ナポレオン1世に謁見。
7月4日、死没。

 
 
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