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こんにちは。
 
 
今回は、フランス革命がエスカレートしていく段階で、完全に悪役にされているロベスピエールについてお伝えします。少しロベスピエールを擁護してます。
 
 
私はロベスピエールはマリーアントワネットと同じく、世論に「ヒール役」を押し付けられた人だと思っています。
 
 
そもそも「ロベスピエール=恐怖政治」というのが、おかしいです。高校世界史ではこう習いますが、フランス革命期の政治は、混乱して政局がコロコロ変わり、見方によっても見解が変わるので、複雑で簡単には説明しきれないのです。
 
 
でも、Wikipediaの「ロベスピエール」の項目には、「史上初のテロリスト(恐怖政治家)」と載ってます。びっくりです。
 
 
フランス革命は、国王夫妻の処刑後、戦争(対仏大同盟)と内乱、経済の停滞で、国がめちゃくちゃになり、政治がパニック状態に陥りました。
 
 
多くの人々がギロチンで処刑されましたが、そのすべてをロベスピエールが望んだわけではありません。
 
 
もはや、誰にも止められない恐慌状態になっていたのです。
 
 
では、まずはロベスピエールがどんな人だったのか、お伝えします。

 
 

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ロベスピエールの生い立ち

 

 
マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス北部アルトワ州(パ=ド=カレー県)出身で、平民(第三身分)の息子として生まれました。
 
 
平民でしたが、地元アルトワでは多くの法律家(弁護士)を出した良い家柄で、祖父も父も弁護士で州の評議会委員を勤めました。
 
 
かなり裕福な家庭だったのですが、ロベスピエールが幼い頃、出産が原因で母親が亡くなり、その後、身を持ち崩した父が失踪してしまいました。
 
 
それで、彼は6歳で孤児(家長)になってしまったのですが、真面目に勉強を続け、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王学院)で学びました。
 
 
勉強を続け法律や思想を読みふけった彼は、だんだんルソーの啓蒙思想に傾倒していきます。
 
 
パリ大学で法学修士号と弁護士資格を取った後、ロベスピエールは一旦、地元に帰って弁護士事務所を開業しました。
 
 
政治家に転身したのは、30歳のときでした。
 
 
「三部会」のアルトワ州第三身分代表として、彼は再びパリに戻ったのです。
 
 
それからの彼は、政界でジャコバン派内の山岳派(ジャコバンクラブ)に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対しました。
 
 
当初、彼は「死刑廃止法案」を提出したこともあったのですよ。
 
 
その後、パリ市民の支持を得て、1793年6月2日には「国民公会」からジロンド派を追放してジャコバン山岳派の独裁へ進みました。
 
 
1793年は1月21日に国王ルイ16世が、10月16日には王妃マリーアントワネットが処刑された年です。
 
 
ここから、フランス革命の「血の粛清」がどんどん加速していきました。
 
 
1794年、ロベスピエールの山岳派は市民の圧倒的な支持を集め、3月に極左派のエベール派、4月に右派のダントン派を粛清して、彼が理想とする共和制樹立を目指しました。
 
 
反対する者たちは、形ばかりの「革命裁判」にかけられ、どんどんギロチン送りになりました。
 
 
しかし、周りの国々との戦争が好転して国内危機が収まってきた1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)、ロベスピエール一派は反ロベスピエール派に逮捕されたのです。これが「テルミドール9日のクーデタ」と呼ばれる事件です。
 
 
そして、その翌28日、マクシミリアン・ロベスピエールサン=ジュストジョルジュ=クートンらとともにギロチンで処刑されました。
 
 
革命裁判にはかけられず、逮捕の翌日に死刑が執行されたのです。

 

 

「悪魔」か「善人」か?ロベスピエールの特徴

 

 
ここからは、ロベスピエールに関する逸話をお伝えします。
 
 
フランス革命期は政権が変わるたびに、主な登場人物の人間像がブレるので、いい人だったのか悪い人だったのか分かりにくいです。
 
 
その理由は、当時の史料が書いた人の「主観」が入りまくっているからです。たとえば、マリーアントワネットは革命期は「淫らなオーストリア女」だったのが、王政復古期には「悲劇のヒロイン」扱いです。
 
 
ですから、真偽は不明、通説・逸話として伝わっていると思ってお付き合いください。

 
 

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◆ロベスピエールは生真面目すぎて退屈な人だった?

 

 
ロベスピエールは「悪魔」のようと評される一方、「清廉の人」というキャッチコピーのつく人でした。
 
 
恐怖政治はあたかもロベスピエール1人の仕業のように思われがちですが、清廉潔白だったという当時の評価は割りと正しいものだと思います。
 
 
いろんな書物の中からイメージできる彼の特徴は、すごく頭が良くてクソ真面目、本気でルソーの万民平等を願っていた高潔の士、ユーモアが分からないおもしろ味のない人です。
 
 
マリーアントワネットに「なあんて退屈な人なのかしら」とか言われそうですよ。
 
 
フランス人なのに実直で潔癖、それでもともと革命の同志だった「快楽の追求者」ダントンとよく比べられます。
 
 
ダントンはお金も女性関係も派手で、私生活はスキャンダラスな人でした。
 
 
ロベスピエールは同志のそんな姿を見ていられなかったらしく、「徳」という言葉を連発して本人を非難したことがありました。
 
 
ダントンは酔っ払いながら、見事にそれを冗談でかわします。
 
 
「オレが毎晩、ベッドで妻を相手にしている【徳】ほどしっかりした【徳】はないだろうさ♪」
 
 
ロベスピエールの名言にこういう言葉があります。
    ↓
「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」
 
 
ダントンは、ロベスピエールがいつも大真面目に語っている「徳」という言葉を、おちょくって使ったのでした。
 
 
生真面目一辺倒のロベスピエールは、プンプン怒って立ち去ったそうですよ。

 
 

◆演説の日には傍聴席に女性があふれたという話

 

 
ロベスピエールの政治家としての思想は、「徳」と「恐怖」で説明されます。
 
 
彼は代々弁護士の家系で、本人も弱者の味方の弁護士をしていたこともあり、高潔な人でした。
 
 
揺るぐことのない正義の人で天才的な頭脳を持つ人で、ついでに実行力もある人でした。
 
 
そんな正義の人の演説に、バリ市民は熱狂しました。
 
 
常に質素な生活を好み、独身のストイックな思想家でした。
 
 
だから、特に女性に人気が高く、彼が演説台に立つ日はパリジェンヌたちがたくさん傍聴席に集まり、熱い視線を投げかけたそうです。
 
 
小泉進次郎氏みたいな感じでしょうか・・・?
 
 
イケメンだったかどうかはわかりません。肖像画を見る限りうーーんという感じですが、クリーンなイメージでモテたのでしょう。
 
 
ジャコバンクラブには超美形大天使・サン=ジュストがいるので、イケメンキャラは彼に持っていかれてます。
 

 
 

◆「恐怖政治」は誰にも制御できなかった

 

【出典元:Wikipedia「テルミドール9日のクーデタ」】

 
前述しましたが、「恐怖政治」はロベスピエールが「やってやるぜ!」と1人で意気込んで始めたものではありません。
 
 
彼はもともと「死刑廃止法案」を提出したほどの平和主義の人、ルソーの啓蒙思想に傾倒していた人ですから、積極的に「独裁」を志向するわけがないのです。
 
 
しかし、当時のフランスは、内乱と戦争で政治・経済が混乱していました。そして、こういう時期に人々が求めるのは「強い政権」です。
 
 
独裁政権はパリの民衆たち自身が必要としたものなのです。
 
 
そのとき政治の中核にいたのが、ロベスピエールら「公安委員会」の委員でした。
 
 
ロベスピエールの一派は、思想的には中道でパリ市民の人気は高かったのですが、議会では実はかなりの少数派でした。
 
 
常に不安定な政権だったため、権力を強めようとして極左派のエベール派や、右派のダントン派に対抗処置をとっていったのです。
 
 
恐怖政治は、もともとは極左派の要望で地方に派遣した議員たちによる地方の粛清が多かったのです。それらの議員の多くは、エベール派やダントン派でした。
 
 
それらの派遣議員の地方での行き過ぎた行為が問題になり、彼らはパリに召喚され説明を求められる身になりました。
 
 
すると、彼らは団結して反抗しクーデタを起こしたのです。
それが「テルミドール9日のクーデタ」です。
 
 
恐怖政治は、1人の人間の独裁によるものではありません。公安委員会は十数名の合議制の組織でした。また、政党の入れ替わりが激しく、どんどん様相を変えていったため、誰か1人がコントロールできるようなものではなかったのです。
 
 
ロベスピエールも、すべての状況を制御できたわけではありませんでした。
 
 
そもそもフランス革命期は、フランス各地で内乱が起こっていました。それらの地方の民衆の暴動をくい止めるために作られたのが「恐怖政治」だったのです。
 
 
この内乱による総死亡者数は、フランス全土で60万人とも80万人ともいわれます。
 
 
地方の虐殺に比べると、パリのギロチンでの処刑者数は2500人ほど、全体の2~3%ほどといわれます。
 
 
ロベスピエールの死後、ジャコバンクラブは解散し、議会は「総裁政府」へと移ります。
 
 
でも、国の政治経済の混乱は続き、一部のブルジョアを除く多くの民衆が、ひどいインフレに苦しめられました。
 
 
そうなると、また民衆が望むのは「強い政権」なのです。
 
 
そうして、フランスの民衆は、独裁者・ナポレオン・ボナパルトの台頭に、夢と希望を見出していったのでした。

 
 

ロベスピエールの簡単年表

 

 
1758年(0歳)
弁護士の息子としてアルトワ州アラスで誕生。
 
・1764年(6歳)
父が家出。
→家長になる。
 
・1769年(11歳)
パリのルイ大王学院入学。
 
・1780年(22歳)
パリ大学卒業。
 
・1781年(23歳)
アルトワ州高等法院の弁護士に。
 
・1789年(31歳)
「三部会」のアルトワ州第三身分代表に。
「ジャコバン・クラブ」入会
 
・1792年(34歳)
「パリ・コミューン」代表として立法議会と対立。
「国民公会」パリ選出議員に
「国王処刑」要求の演説。(12月)
 
・1793年(35歳)
「公安委員会」委員に就任。
7月27日
「テルミドール9日のクーデタ」で逮捕。
7月28日
ギロチンで処刑。
 
※フランス革命全体の年表はこちらです。合わせてどうぞ♪

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