この記事を読むのに必要な時間は約 13 分です。


 
こんにちは~。
 
 
わくわく西洋史シリーズ、宗教改革いきます!
2017年は「宗教改革500年周年」という節目の年でした!
 
 
え? 日本人的には、関係ない?
 
 
確かにそうかも。取り上げられたのは、プロテスタントの学校か、某ゲームぐらいでしたね。
 
 
ちなみに、私は無宗教なので宗教的には中立です。
 
 
宗教改革のビッグネームは、ルターカルヴァン。今回はすべての始まり、ルターの宗教改革について、わかりやすくお伝えします。

 
 

スポンサーリンク

ドイツ宗教改革はいつからいつまで?

 

 
まずは概要をつかむのが大切!
 
 
ということで、マルティン・ルターによる「ドイツ宗教改革」はいつからいつまでなのか?
 
 
1つの区切りは、
 
1517年、ルターによる「95ヶ条の論題」提出
   ↓
1555年「アウグスブルクの宗教和議」まで

 
語呂合わせは・・・
 
1517年→「一語、否(いちご、いな)」
1555年→「以後、GOGO!」
 
分かりやすいですね。
 
 
では、この16世紀、ドイツの社会と教会組織は、どんな感じだったんでしょう。

 
 

ペストの大流行で死が身近な社会だった

 

 
中世末期のヨーロッパは、衛生状態がめっちゃ悪い不潔な社会でした。「古代ローマの温泉文化はどこいった?」という感じです。
 
 
そして、周期的にペスト(黒死病)など死の伝染病が大流行し、家族や友人がバタバタと死んでいきました。
 
 
そんな暮らしの中、人々は不安と恐怖に脅えこう思いました。
 
 
「死んだら天国に行けるんだろうか?」
 
 
中世の西欧人は、ほぼすべてがキリスト教徒(カトリック)です。
「神様、お願い、地獄はイヤ、天国に行かせてください」
 
 
絶対天国に行ける保険って、ないんだろうか?
そしたら安心して死ねるんだけどさ・・・・
 
 
そんな人々の不安と恐怖につけ込むのが宗教の黒いところ。
あるよ、天国への特別切符「免罪符」ってのがね。
 
 
「え? 何それ、ほしい・・・」(´・ω・)

 

 

スポンサーリンク

地獄の沙汰も金次第っておかしいだろ!?

 

 
お金さえ払えば地獄に行かなくて済むってどんな宗教って感じですが、当時は腐敗した神父たちがたくさんいたのです。
 
 
お金が欲しかった教職者と、悪い事したけど地獄落ちしたくないお金持ちとの需給が一致したのです。
 
 
そして、ドイツにはそれをビジネスとして一手に引き受ける「フッガー家」というブラック大富豪がいました。
 
 
もちろん教皇庁のおひざ元・イタリアやイギリス、フランスなどにも「免罪符ビジネス」はあったんです。でも、彼らの多くは「あんなん買うのアホじゃない?」と思っていました。
 
 
ドイツは中央集権が進まずいろいろ遅れていたので、よく教皇庁につけ込まれていたのです。
 
 
1515年の教皇レオ10世の「免罪符ビジネス」(大聖堂修復のための資金集め)も、購入者が多かったのはドイツでした。
 
 
「免罪符」は、正しく和訳すと「贖宥状(しょくゆうじょう)」です。赦されるのは「罪」ではなく「罰」なんですよ。
 
 
そして、本来「贖宥状」を得るには、次のスリーステップが必要でした。
 
 
自分の罪に気づく
  ↓
反省して悔い改める
  ↓
神により赦(ゆる)される

 
 
「悔い改めて赦しを得る」ができてはじめて減免されるものだったのです。悔い改める具体的な行動は「祈り」や「善行」でした。それができた証として、贖宥状(免罪符)が生まれたのです。
 
 
でも、「免罪符」は、しだいに「お金さえ支払えば悔い改める手続きを踏まなくても救われる」という風に変わってしまったのです。
 
 
この免罪符、乱用されただけでなく偽物も横行しました。これはさすがにダメだと教会内部からの告発もあって、結局、後にトリエント公会議で正式廃止されました。

 
 

まじめな神学教授ルター立ち上がる!

 

 
1517年、ヴィッテンベルク大学の神学教授・マルティン・ルターが、この教会腐敗を憂いて、立ち上がりました。
 
 
ルターは「免罪符」を批判し、市の教会に「95ヶ条の論題」を打ち立てたのです。
 
 
ルターは、けっして熱血型の人間ではなく。どちらかというとクールな知識人でした。
 
 
彼は熱く人々を煽動したのでははなく、いつ爆発してもおかしくない世間の不満に、最後の後押しをしただけだったのです。
 
 
このときは、まさかこの年(1517年)が「宗教改革」の記念日として後世に残るなんて、ルターも思っていなかったでしょう。

 
 

ペンは剣よりも強し!

 

 
ルターは神学教授でした。キリスト教についてすごくくわしい知識人です。それで、彼は自分の意見を「宗教批判の論文」に表し、印刷して人々に配ったのです。
 
 
幸い半世紀ほど前にグーテンブルクが活版印刷を発明し、コピー(印刷)可能な社会になっていました。
 
 
こうして彼は、自分の意見をどんどん世間に発信していったのです。
 
 
当時のドイツは識字率が10%ほどだったので、彼は文盲でもわかるようにイラストを描いたビラをたくさん配りました。
 
 
これが効果てきめん!
 
 
マルティン・ルターの思想は、あっという間に世間に広まり支持されていったのです。

 
 

捨てる神あれば拾う神あり?

 

 
1521年、ついにルターは教皇から異端と認定され「破門」されます。
 
 
当時、ドイツを治めていた神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、ルターを追放しました。これが「ヴォルムス勅令」と呼ばれるものです。
 
 
でも、ドイツは地方分権の国です。他にも有力諸侯はたくさんいて、その中の1人、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢侯)が、ルターの受け皿になってくれたのでした。
 
 
ルターはフリードリヒ3世のもとでドイツ語訳の新約聖書を作りました。
 
 
このドイツ語の新約聖書は、文字通り「バイブル」となり、多くのドイツ人にとって教義だけでなくドイツ語を学ぶ教科書になったのでした。
 
 
ルターの宗教改革は、ドイツの識字率アップにもすごく貢献したのです。

 
 

プロテスタントの誕生

 

 
ルター派の広まりに対し、神聖ローマ教皇カール5世は、1526年に第1回シュパイアー帝国議会を開きました。
 
 
これは、ルター派を根絶させようという「ヴォルムス勅令」を徹底させるための会議でした。
 
 
でも、このとき皇帝はフランスとの外交問題に頭を悩まされていたのです。隣国に攻め込まれては、国内の不満分子鎮圧どころではありませんね。
 
 
「ここは、国内一致団結して異国の脅威を退けよう!」ということで、皇帝はルター派容認に舵を切りました。
 
 
これに喜んだルター派の諸侯たちは、領内をルター派思想に染めていきます。
 
 
すると、今度はこれはまずいと思い、皇帝は改めてルター派根絶に乗り出したのです。
 
 
こんないい加減な皇帝の命令に、もはや誰も従おうとはしませんでした。ルター派は諸侯はブッちぎれて「われらはプロテスト(反抗する)する」となったのです。
 
 
そうして、「プロテスタント」(反抗する者)と呼ばれる宗派(新教)が生まれたのでした。

 
 

アウクスブルクの宗教和議

 

 
ドイツは複数の「諸侯」がそれぞれの都市を治めている地方分権国家でした。(つまり神聖ローマ皇帝の力が弱かった)
 
 
カトリック(神聖ローマ皇帝)に対抗するためには、諸侯たちの団結が必要と考えたルター派は、1531年「シュマルカルデン同盟」を結びます。
 
 
こうして、旧教(カトリック)と新教(ルター派)にドイツ国内が二分されて争ったのでした。これでは国力が落ちるだけですね。
 
 
1555年、神聖ローマ皇帝カール5世は、国内の争いと戦争に疲れ、持病の通風が悪化したこともあり退位すると決めました。
 
 
後を継いだのは、スペインで生まれ育った弟のフェルディナンド1世です。
 
 
フェルティナンド1世は、即座にカトリックとプロテスタントを融和させようと動き出しました。
 
 
そうして、1555年「アウクスブルクの宗教和議」が締結されたのです。
 
 
これでルター派容認が決定し、一応、ドイツの宗教改革は終了したのでした。

 
 

「終わり」は「始まり」だった?

 

 
1555年のアウグスブルクの和議で、ルター派プロテスタントが容認され、40年に及ぶ旧教と新教の対立は終わった、かのように見えました。
 
 
でも、その後、カルヴァン派の新教がドイツに広まりだし、それに対抗してイエズス会(カトリック)が「反プロテスタント運動」を行うようになっていくのです。
 
 
その結果、1618年から1648年にかけて、再びカトリックとプロテスタントの血みどろの戦いが繰り広げられることになったのでした。
 
 
それが国際戦争に発展した三十年戦争です。
 
 
その話はまた別の機会にお伝えします。

 
 

スポンサーリンク