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鎌倉幕府は源頼朝の死後、若い2代将軍頼家のもとで、御家人たちが血で血を洗う争い
を繰り返しました。
 
 
「比企能員の変」もそのひとつです。
 
 
今回は、鎌倉殿の13人のひとりで、源氏に古くから仕えていた比企一族の当時の長、比企能員(ひきよしかず)の人生と一族が滅びた「比企能員の変」についてお伝えします。

 
 

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源氏を支え続けた比企一族

 

 
比企氏(ひきし)の本拠地は、武蔵国比企郡(埼玉県比企郡と東松山市)で、1159年に源頼朝が伊豆配流となった際、比企掃部允(ひき かもんのじょう)が、妻の比企尼(ひきのあま)と共に、京から領地の比企郡に入りました。
 
 
比企尼(ひきのあま)は、源頼朝の乳母になった女性でした。
 
 
比企能員(ひき よしかず)は、比企尼(ひきのあま)の甥でのちに養子(猶子)になりました。当時は乳母の一族が大きな後ろ盾になっていたので、比企能員は比企尼の縁で源頼朝に仕え、信任を得るようになります。
 
 
比企一族は、頼朝が伊豆に流されていたときも、必要な物資を届けて頼朝を支え続けました。

 
 

源頼家の乳母夫になり権勢を誇る

 

 
このように比企一族は、源頼朝にとって古くから信頼できる御家人でした。
 
 
そして、嫡男・頼家が生まれると、頼朝は比企能員の妻を頼家の乳母に選びました。
 
 
さらに、頼家は比企能員の娘の若狭局(わかさのつぼね)を妻に迎え、比企一族は源頼朝・頼家の強い信任を得ました。
 
 
1199年、頼朝が死去し、頼家が2代将軍についたとき、外戚となった比企氏の勢力は絶頂を迎えます。

 


 

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北条氏にはめられた「比企能員の変」

 

 
そんな比企氏を何とかして打ち負かしたいと思っていたのが、頼朝の妻の一族、北条氏でした。
 
 
北条氏は頼家の弟・源実朝(さねとも)の後ろ盾でした。頼家を擁する比企能員と実朝を将軍にして実権を握りたい北条時政との対立は、どんどん激しくなりました。
 
 
そんな状況の中、1203年7月、源頼家が病気になり一時危篤状態に陥ってしまいます。
 
 
それを受けて8月には、もしも頼家が亡くなった場合、将軍家の家督を日本国総守護職と関東28カ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に、関西38カ国の地頭職を実朝に譲るという措置が決められました。
 
 
この取り決めの中心人物は北条時政だったといわれます。
 
 
これに比企能員は激しく反発します。将軍の嫡男の一幡が家督を総取りするのが当然と考えるのは自然です。
 
 
怒りが収まらない比企能員は、娘の若狭局を通じて重病の源頼家に北条時政を追討すべきと伝えさせました。そして、頼家は能員に北条氏追討の許可を与えました。
 
 
『吾妻鑑(あずまかがみ)』によると、そのやり取りを北条政子が障子ごしに聞き耳を立てて聞き、父の北条時政にすぐに伝えました。
 
 
それを聞いて驚いた時政は、大江広元を訪れて先手を打って比企能員を討とうと思うと明かすと、大江広元は、武士でない自分には兵法を論ずることはできないので、時政に任せると返答しました。
 
 
大江広元に報告した後、時政はすぐに行動に移しました。
 
 
そして、薬師如来像の供養の儀式を行うという理由で比企能員を自邸に誘き出し、部下に殺害させました。
 
 
能員が暗殺されたという知らせを受けた比企一族は、嫡男・一幡の館(小御所)に籠って防戦体制に入りましたが、北条政子の命を受けた北条義時らの大軍が小御所に攻め寄せ、激戦の末、比企一族を滅亡させました。
 
 
将軍頼家の妻の若狭局(わかさのつぼね)も嫡男の一幡(いちまん)も、最後は火を放たれた邸の中で炎に包まれ最期を遂げました。
 
 
権勢を誇った比企一族は、たった1日で北条氏にだまし討ちにあい滅亡しました。
 
 
これが「比企能員の変」です。

 
 

おわりに


 
「比企能員の変」で比企氏が滅亡したことを知らされた頼家は激怒しましたが、もはや後の祭りです。頼家の妻子も殺されてしまいました。
 
 
そして、「比企能員の変」より5日後、頼家は北条氏の命で伊豆の修善寺に幽閉されることになります。
 
 
将軍職は、北条氏が朝廷に実朝へ継承したい旨の願いを出し、それが認められました。
 
 
頼家は、しばらくの間、おとなしくそこでわびしい暮らしをしていましたが、1204年7月、北条氏の命を受けた刺客により殺害されました。
 
 
比企能員と源頼家は、北条氏の野望により陥れられ滅ぼされたのです。

 
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