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こんにちは。
今回は、大津皇子(おおつのみこ)の波乱にとんだ生涯と、彼の詠んだ有名な和歌をご紹介します。
大津皇子とは
上代(飛鳥時代後期~奈良時代)の人物の関係は、とてもややこしいです。
なぜなら、腹違いの兄弟(姉妹)が何人もいたり、近親同士で結婚していることが多いからです。当時は、叔父と姪はもちろん、腹違いの兄妹も結婚できました。
古代の社会は、皇族や権力者がそのようにして権力の分散をふせぎ、国を守っていたともいえるのです。
大津皇子については、持統天皇(鵜野讃良皇女=うののさららのひめみこ)を中心にしてみていくと分かりやすいと思います。
というのも、大津皇子の母は持統天皇の実の姉なのです。名は大田皇女(おおたのひめみこ)。この2人の皇女は、同じ父・同じ夫をもった姉妹でした。
つまり、彼女たち姉妹は、どちらも天智天皇を父とし、天武天皇に嫁いだのです。
そして、2人とも夫・天武天皇の子を生みました。
大田皇女(姉)の子は大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子、持統天皇(妹)の子は草壁皇子(くさかべのみこ)です。
(※大伯皇女は大来皇女と表記されることもあります)
大津皇子の生涯
①生い立ち
大津皇子は、663年に天武天皇と大田皇女の間に生まれます。姉とは2歳ちがいでした。
5歳のときに母を病気で失いました。
②最期
大津皇子の悲劇は、母の大田皇女が早くに亡くなってしまったことと、持統天皇にも男子が誕生したことによって起こされたといえます。
姉の大田皇女が亡くなったことで、妹の鵜野皇女(のちの持統天皇)が正統な皇后(おおきさき)となったからです。
天武天皇が亡くなったとき、後継の座をめぐって
草壁皇子vs大津皇子
の対立が発生しました。
大津皇子は、立場的には不利(母が亡くなっている&皇后の息子ではない)でしたが、政治に参加していて、周りからの人望や実力が厚かったのです。
彼は『懐風藻(かいふうそう)』という古代の漢詩集に、「体格にめぐまれ、器が大きくて頼りになる性格。文武両道で、礼儀正しい」という内容のことが書かれています。
しかし、天武天皇が崩御した686年、『日本書紀』に「大津皇子が謀反を企てた」と記載されました。
正当なあとつぎではない大津皇子が、皇太子(ひつぎのみこ)の座をねらってクーデターを起こしたというのです。
※ただ、彼がどういう原因でどのように決起したのか、はっきりとはわかっていません。「誰かに告発された」「謀反をそそのかされた」など、色々な憶測がとびかっています……。
天武天皇崩御で混乱しているなか、謀反の疑いのある皇子(それも人格者)を放っておくわけにはいかず、持統天皇は彼に死を命じました。
そうして、686年10月、大津皇子は24歳でこの世を去りました。(自害)
大津皇子の「和歌」
『万葉集』におさめられている大津皇子の和歌を3首紹介します。
①あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに
(あなたを待っていて私は濡れてしまいました、山のしずくに)
石川郎女(いしかわのいらつめ)に送った歌です。ラブレターでしょうね(´艸`)
彼女の返歌もあるそうです。
②経(たて)もなく ぬきも定めず をとめらが 織る黄葉(もみじば)に 霜な降りそね
(霜よ、縦糸も横糸も決めず、乙女たちが織る紅葉には降らないでおくれ)
③ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
(磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限り、私はもう死ななければならないのだ)
これは、謀反の疑いで自害させられる直前の歌です……。
姉・大伯皇女
大伯皇女(おおくのひめみこ)は661年に誕生しました。
母の死後、父・天武天皇の命で伊勢の斎宮(さいぐう)となります。斎宮となる皇女として、生涯、未婚のままでした。
『万葉集』にある彼女の歌は、6首すべて弟を思って詠まれたとされます。
①わが背子(せこ)を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露(あかつきつゆ)に わが立ち濡れし
(大切な弟を大和へ見送って、夜のふける中、やがて明け方の露に濡れるまで、私はずっと立ち続けたのです)
②二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
(二人で行っても越えるのが大変なさびしい秋の山を、たった一人で、あなたはどうやって越えるのかしら)
大津皇子が逮捕される直前、自らの運命を悟りつつ帰る弟を思った歌です。
③神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
(伊勢の国にいればいいものを、なぜ帰ってきたのかしら、あなたはもういないのに)
④見まく欲り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに
(会いたいと願うあなたはいないのに、なぜ帰ってきたのかしら、馬を疲れさせるだけなのに)
⑤現世(うつそみ)の 人にある我れや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 兄弟(いろせ)とわが見む
(この世に生きる人間であるわたしは、明日から二上山を弟と思って見ることでしょう)
大津皇子の亡骸は、都からはなれた二上山に埋められました。
⑥磯の上に 生ふる(おうる)馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が ありと言わなくに
(磯のほとりの馬酔木を手折ろうと思ったけれど……それを見せたいあなたがいるわけではないのに)
以上、大伯皇女の和歌でした。
弟の大津を大切に思っていた様子がわかりますね。
大津皇子は謀反の疑い(あくまで疑いです)で滅ぼされたことにより、悲劇の英雄になりました。
これは『平家物語』にも通じる話ですが、非業の死を遂げた者は、後世に英雄扱いされることが多いですね。
(ライター:華)
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