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三浦氏は、相模国(神奈川県北東部)を本拠とした豪族で、源頼朝が挙兵した当初から源氏に味方した一族でした。
 
 
三浦義澄(みうらよしずみ)が活躍して一族が栄える基盤を作ったことで、息子・義村の時代に最盛期を迎えることができました。
 
 
鎌倉殿の13人(13人の合議制)の一員、三浦義澄について、お伝えします。

 
 

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三浦義澄の生い立ち

 

 
三浦義澄(みうらよしずみ)は、1127年、衣笠城主の三浦義明の次男として生まれました。母は秩父重綱の娘です。
 
 
三浦氏は桓武平氏の祖・高望王(たかもちおう)の子孫で、相模国三浦郡(神奈川県横須賀市あたり)を本拠とする豪族でした。
 
 
1159年の「平治の乱」の際には、源義平に従って源氏方で戦いました。
 
 
1164年、相模・杉本城主だった兄・杉本義宗が亡くなったとき、三浦氏の家督を継ぐことになりました。(兄の杉本義宗の嫡男は和田義盛)

 
 

北条氏・伊東氏らとは縁戚関係だった

 

 
北条氏、伊東氏、和田氏、畠山氏など源氏をとりまく有力御家人たちは、婚姻により多くは親戚になっていました。
 
 
つまり、彼らは身内間で滅ぼし合っていたわけです。
 
 
三浦義澄の妻(息子の三浦義村の母)は、伊藤祐親(すけちか)の娘です。
 
 
北条時政も伊藤祐親の娘と結婚し、宗時、義時、政子、阿波局が生まれています。
 
 
つまり、三浦義澄と北条時政にとって伊藤祐親は「舅(しゅうと)」で、宗時、義時、政子、阿波局と三浦義村にとって母方の「祖父」になります。(大河で「じさま」と呼んでいたのは本当にじいちゃんだったから?)
 
 
北条義時と三浦義村は従兄弟ということです。
 
 
畠山重忠の母は三浦義澄の父・義明の娘なので、重忠は三浦義澄の「甥」に当たります。
 
 
また、和田義盛も三浦義澄の「甥」になります。
 
 
ややこしいです。
 
 
今も昔も、身内以上にこじれると面倒なものはないのかもしれません。

 
 

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「衣笠城の戦い」で畠山重忠に父を討たれる

 

 
1180年8月、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝が挙兵すると、三浦義澄は父・義明と共に頼朝に味方しました。
 
 
しかし、三浦氏は伊豆から離れた相模国を拠点としていたため、急いだものの間に合わず、頼朝は「石橋山の戦い」大庭景親率いる平家軍に大敗してしまいました。
 
 
頼朝に合流できなかった三浦氏は、居城・衣笠城に戻る途中、鎌倉の由比ヶ浜で、大庭景親と呼応した畠山重忠に出くわし激戦となりました。
 
 
当初、畠山氏は平家方だったということです。
 
 
重忠はいったん退却しましたが、河越重頼に加勢を依頼して、三浦氏の居城・衣笠城を襲撃しました。敗北を悟った三浦義澄は、城を捨て逃げる決断をしましたが、父の義明はこれを拒否しました。
 
 
老齢の義明は、息子の義澄を逃がし、自分はここを死に場所と決めて城に残ると決めたのです。
 
 
こうして、三浦義明は衣笠城で応戦し、89歳の生涯を閉じました。これが「衣笠城の戦い」です。
 
 
ちなみに、畠山重忠の母は義明の娘なので、重忠は「孫」、三浦義明は孫に討たれたということになります。
 
 
源平の合戦の初期の東国武士たちは、平氏につくか源氏につくか決めかね、同族で敵味方になることもあったとわかります。
 
 
畠山重忠も、10月には源頼朝に従う決断をしました。
 
 
父の仇が味方になったというのは、三浦義澄にとっては複雑だったでしょう。

 
 

源頼朝に信頼され「宿老」に

 

 
衣笠城を出た三浦義澄は、再び体制を整えた源頼朝と合流し鎌倉へ進軍しました。その道中、各地の東国武士たちが呼応し。鎌倉に入るころには40,000人もの大軍に膨れ上がっていたといわれます。
 
 
そのころ平氏は、源頼朝を討つために平維盛(たいらのこれもり)率いる軍勢が東国へと下向していました。
 
 
そして、源氏・平氏の両軍は駿河国(静岡県中部)を流れる富士川の河口付近で、対陣しました。
 
 
「富士川の戦い」とよばれるこの合戦は、平氏方の士気が低く、本格的に戦うことなく(水鳥の飛び立つ音にパニックを起こして敗走したとも)平氏方が撤退し、源頼朝軍が勝利しました。
 
 
この合戦の後、三浦義澄はこれまでの所領を安堵され、さらに新しい領地を賜りました。
 
 
また、父・三浦義明が叙されていた官位「三浦介」(みうらのすけ)の世襲も許可されます。
 
 
その後も三浦義澄は、「一ノ谷の戦い」「壇ノ浦の戦い」など主要な合戦に従軍し、1189年の「奥州征伐」でも戦功を立てました。
 
 
そして、三浦義澄は、上総広常(かずさひろつね)や千葉常胤(ちばつねたね)らと共に、源頼朝の宿老になったのです。
 
 
1192年に、頼朝が征夷大将軍に任ぜられたとき、義澄は鶴岡八幡宮でその除書(任命書)を受け取るという大任を任されました。
 
 
この一件でも、三浦義澄がどれだけ源頼朝に信頼され厚遇されていたかわかります。

 
 

13人の合議制

 

 
1199年1月13日、源頼朝が急死すると、まだ若い2代将軍(鎌倉殿)の源頼家を支えるため「十三人の合議制」が発足しました。
 
 
三浦義澄もその13人の有力御家人の一員となりました。
 
 
同年、源頼朝の側近の一人・梶原景時が失脚する事件がありました。(「梶原景時の変」
 
 
御家人66名が梶原景時を弾劾する連判状を連名で出し、景時は追放され、上洛する道中で討たれたのです。三浦 義澄は、嫡男の義村とともにこの弾劾に参加しました。
 
 
景時が討たれた3日後の1200年年1月23日、三浦義澄は病で74歳の人生を閉じました。
 
 
三浦氏は、その後、嫡男の三浦義村が引き継ぐことになります。

 
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