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今回は平清盛に信頼される相模一の大物、大庭景親(おおばのかげちか)についてお伝えします。
頼朝の大きな壁となる「坂東の後見」といわれた実力者でした。
源氏から平氏へ鞍替え
大庭氏は、桓武平氏の血をひく坂東八平氏の一つです。
大庭景親は、相模国の豪族・大庭景宗の次男として生まれました
1156年の「保元の乱」のときにはまだ10代でしたが、源義朝の兵として参戦しました。この戦いで兄が源為義の矢を受けて負傷し、景親が家督を相続することになりました。
しかし、1160年の「平治の乱」の後、景親は平氏に捕らえられてしまいます。このとき彼は平氏に命を助けられ、恩義を感じてこれ以降、平氏に従うようになりました。
「石橋山の戦い」で頼朝軍を圧勝
1180年、以仁王(もちひとおう)の「平家追討」の令旨を受け、全国の源氏が兵を挙げようとしました。
相模国へ帰国した大庭景親は、佐々木秀義を自邸へ招いて源頼朝は謀反の疑いがあるので討つべきだと話しました。
しかし、このとき佐々木秀義とその息子たちはすでに源頼朝と意を通じていたため、驚いた佐々木秀義はすぐに頼朝に使者を送りこのことを告げました。
これを受けた頼朝は急いで挙兵し、伊豆国目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害しました。
その後、頼朝は300余騎で土肥実平の所領のある相模国(神奈川県)まで進出し、景親率い約3000の兵と戦うことになりました。
これが「石橋山の戦い」と呼ばれるものです。
多勢に無勢、景親の圧倒的な兵力を前に、頼朝は敗走してなんとか山中に逃れ生き延びます。
このとき隠れていた頼朝を見つけ、見なかったことにして見逃してくれたのが、のちに側近となる梶山景時でした。
「石橋山の戦い」は、源頼朝にとって挙兵直後で唯一(?)ともいえる負け戦となりました。
梶山景時のおかげで九死に一生を得た頼朝は、そこから安房国(千葉県南部)に渡って、体制を立て直すことに成功します。
それから先は、あれよあれよという間に、賛同する東国武士たちが集まり、鎌倉入りを果たすときには2万を超える大軍となっていたのです。
平氏は頼朝軍に対抗するため、平維盛(たいらのこれもり)を大将とする軍を派遣しますが、富士川で対峙した平家軍は、戦うことなく敗走しました。(「富士川の戦い」)
大庭景親は、このとき1000以上の兵を率いて参加しようとしましたが、敵に阻まれて本隊に合流できないまま戦いは終わってしまいました。
その後、景親は平氏方の敗北を知り頼朝に降伏します。彼の処分は源氏方の有力御家人の上総広常(かずさひろつね)に任せられ、数日後、大庭景親は、片瀬(神奈川県藤沢市)で処刑され、さらし首となりました。
兄の大庭景義は源氏に従い幕府御家人に
1180年、源頼朝が挙兵したとき、平氏に命を助けられた恩のある大庭景親は平氏方で戦い頼朝を追い詰めましたが、その兄の大庭景義は従来どおり源氏に忠義を誓い味方しました。
大庭兄弟は「石橋山の戦い」では、敵方になって戦ったのです。
その結果、景親は処刑され、景義は鎌倉幕府の御家人として天寿を全うすることになりました。
源氏につくか平氏につくか、どちらを選ぶかで人生が大きく変わりました。
当時は、兄弟、親戚がどちらにつくか迷いに迷い、敵味方になって戦うことも少なくなかったのでしょう。
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