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こんにちは。
今回は、徳川家康の正室・瀬名姫についてお伝えします。
瀬名氏は今川氏の一族です。その一族の姫・瀬名姫はぬけるような白い肌をした美女で、大人しい内向的な女性だったそうですよ。
でも、なぜか歴史ドラマでは、悪女として描かれることが多いです。
それは、彼女が徳川家を裏切って武田家と内通した疑いを受け、夫・家康の命で家臣に殺害されたからなのでした。
でも、その罪の根拠は、未だはっきりしていません。
おそらく勝者の歴史の中で、「悪」にされてしまった哀れな女性だったのでしょう。
目次
瀬名姫(築山殿)の生い立ち
築山殿は、今川義元の重臣・関口義広(親永)と義元の妹との間に生まれたお姫さまでした。(今川義元の養妹という説あり)
そして、今川義元のすすめで家康が16歳のとき2人は結婚しました。お姫様と人質の結婚という格差婚です。
でも、すぐに子供ができたことから、2人の夫婦仲はなかなか良かったと思われています。
何ごともなければ、2人はこのまま仲むつまじく過ごせたかもしれません。
でも、そううまくはいかなかったのでした。
桶狭間の戦いで人生が狂いだした
1560年、家康が18歳のとき「桶狭間の戦い」が起こりました。この戦いで、織田信長の奇襲攻撃により今川義元が討死しました。
徳川家康は今川氏の一員として大高城で戦っていたのですが、義元が戦死したことで、ようやく人質の身から開放されました。
彼は今川のもとには戻らず、そのまま徳川(松平)の本拠地・岡崎城に帰ったのです。妻の瀬名姫と長男の竹千代(信康)を、今川氏のもと(駿府)に残したまま・・・
家康が妻子と再会できたのは、それから2年後でした。
そうして、岡崎城に戻って家康がまずしたことは、今川を討った織田信長との同盟でした。(清州同盟)
配下だった徳川が敵の織田と手を組んだのですから、今川氏の跡継ぎ・氏真は激怒しました。そうして、今度は瀬名姫と竹千代(信康)が「徳川の人質」として、そのまま今川に留まることとなったのです。
今川の血を引く瀬名姫と竹千代は、どんどん立場が微妙になっていきます。清州同盟が成立したとき、瀬名姫の両親は主君(今川氏)から自害するよう命じられたのです。
夫の決断で両親が死に自分と息子は人質になってしまったんですよ。1つの戦いでこれだけ人生が狂わされてしまったのです。
「今川家の女」と徳川の家臣に嫌われる
家康が今川氏の人質生活をしていたころ、三河(徳川家)の家臣たちは、戦のときには常に最前線に立たされ、捨て石のような役目を負わされていました
若殿(家康)はそれなりに厚遇されていたけど、家臣たちはすごく屈辱的な扱いを受けていたのです。
だから、彼らの今川氏に対する敵対心、不快感はものすごく強かったのでした。
そうして、2年後に瀬名姫と竹千代(信康)が家康のもとに戻れたとき(人質交換で戻れた)、瀬名姫は家臣の大反対で岡崎城に入れませんでした。
そういうわけで、仕方なく城外の惣持尼寺の築山(つきやま)で暮らすことになりました。
こうして、瀬名姫は以降、築山殿(つきやまどの)と呼ばれるようになったのです。
武田家との内通疑惑で殺害される
元亀元年(1570年)瀬名姫(築山殿)は、ようやく岡崎城に入れました。でも、ちょうどこのころ、家康が浜松城に移ったのです。なぜにまた別居?
そして、築山殿にとって、またもや腹の立つ出来事が起こりました。息子・信康と織田信長の娘・徳姫の結婚が決まったのです。
織田信長は自分の人生を狂わせた大元、その娘が息子の嫁になったわけです。
この嫁と姑の関係は、予想通り最悪でした。
そして、この嫁の父親への爆弾発言(手紙)で、瀬名姫と信康は命を落とすことになるのです。
瀬名姫(築山殿)殺害の真の理由
瀬名姫(築山殿)は天正7年(1579年)8月29日、二俣城へ護送される途中、佐鳴湖の畔で徳川家の家臣の手で殺害されました。
それからほどなくして、嫡男・信康も自害を命じられています。
彼らはなぜ殺されなければならなかったのか?
それには、いくつか説があります。
事件のきっかけは、息子の嫁の徳姫が姑(瀬名姫)と夫(信康)のグチを、父親に手紙で送ったことでした。
その父親というのが織田信長だったので大変です!
瀬名姫と徳姫の嫁姑の仲は最悪だったようですが、瀬名姫が息子に武田家ゆかりの娘を側室にとすすめたものだから、徳姫も相当頭に来たのでしょう。
そうして、嫁は父親(信長)に、「瀬名姫と信康が武田家と内通している!」と手紙で告げ口してしまったのでした。
この2人の女性の関係を考えると内通が真実かどうかかなり怪しいと思うのですが、その手紙を読んだ信長が激怒し、 家康に瀬名姫(築山殿)とその息子・信康を始末するよう命じたとされています。徳川の正史では・・・
ところが、徳姫の手紙「12か条の弾劾文」は、「武田家との内通」以外のほとんどが「姑(瀬名姫)は派手好きで意地悪」「信康はダメな暴君」という姑と夫をののしる言葉ばかりです。
そして、織田信長はすぐに激怒する人でしたが、ものすごく頭の冴えた賢い人でした。この2人の嫁姑関係を考えると、この手紙を鵜呑みにしたとは到底思えません。なのに、なぜ殺害命令まで出したのか?
そこで出てくるのが、信康が勇猛でデキる嫡男だったから、織田信長が脅威を感じて、今のうちにつぶそうと考えたという説です。
でも、信長は家康とは本能寺の変までずっと同盟関係を続けてますし、そもそも信康って信長にとってそんなに脅威か?と思います。そこまでするだろうかと疑問が残りますね。
また、他にも瀬名姫(築山殿)が武田家に内通しているという情報の連絡係を務めた重臣・酒井忠次の陰謀だったという説もあります。酒井がもうちょっとうまく取りなしていたら、信長の激怒はなかったのではないか、「もしかして、それ狙って報告した?」というものです。
これはあったかもしれませんが、なぜ重臣が主君の妻と嫡男を?と思いますよね。
そこで、最近、有力視されているのが、戦国時代によくある嫡男のクーデター説です。
どこの国でもそうですが、本人がそう思わなくても、担ぎあげる家臣団が出てくると脅威になります。
武田親子、伊達兄弟、織田兄弟など、親子・兄弟の家督争いは、この下剋上の時代にはよくあることでした。
信康自身が本気で父に反旗を翻そうと思っていなかったとしても、難しい場合があるのです。
当時、徳川家は信康を推す岡崎城の家臣団と 家康の浜松城の家臣団の関係が相当こじれていました。
それで、信康を立てて家康の排除を企てた岡崎城派を一掃するために、家康が信康と瀬名姫(築山殿)を殺害し、事態の収束を図ったと思われるのです。
これが最も信ぴょう性の高い説だと思います。
でも、徳川家を1つにまとめるために正室と嫡男が邪魔で殺したなんて、徳川家の正史に残すことはできませんね。
だから、築山殿は「武田と内通していた悪女」でなければならなかったのでしょう。
おわりに
史料に残る歴史は、ほとんどが勝者の手で作られた歴史です。
瀬名姫(築山殿)と信康は、徳川家が一枚岩となって戦国時代を生き抜くために、生きていては災いの種になるとみなされたのでしょう。
家康は家を守るためにそうすべきと考えたので後悔はしなかったようですが、嫡男のことは無念に思っていたそうです。
でも、瀬名姫(築山殿)のことは、生前もかなりうっとおしがっているので、きっと何とも思っていなかったでしょう。(´;ω;`)ウゥゥ