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こんにちは。
あなたの徳川家康のイメージってどんなでしょう?
苦労人だった?
狡猾なタヌキ親父?
あまりパッとしないイメージです。(私は結構好きなんですけど)
よく知られているのは、後継ぎの秀忠と切腹させられた嫡男・信康ぐらいですね。
でも、家康は、かなりの子沢山だったんです。
当時の大名は、子孫(=子供)を残すことが重要任務の1つでしたから、そういう点でもそつのない人だったのかもしれませんね。
家康は側室の選び方がちょっと変わっていまして、既婚女性や出産経験者をどんどん選んでいます。
「出産経験がある」=「不妊でない証拠」と考えて、好ましく思ったのだそうです。
では、今回は徳川家康の子供について、ちょっと多すぎるので実子に限定しますが、さらりとすべてお伝えします。
目次
徳川家康の子供は、びっくり38人もいた!
記録に残っている徳川家康の子供は、これだけいました。
実子:16人(男子11人・女子5人)
猶子:1人(男子)
養子:21人(男子3人・女子18人)
合計38人です!
ここでちょっと気になる言葉、「猶子」って何?って思いませんでした?
「猶子」というのは、通常の養子縁組とは違って、官位昇進・婚姻・他氏族との関係強化など家の都合のために結ぶ親子関係のことです。
後陽成天皇の第8皇子・八宮良純親王(はちのみやりょうじゅんしんのう) が、1615年に家康の猶子となりました。
でも、この人、問題児だったらしく甲府に幽閉されたりしてます。
それでは、家康の子供を、実子のみ名前だけ上から順に男女別にお伝えします。
★男子
松平信康←切腹
結城秀康
徳川秀忠←徳川第二代将軍
松平忠吉
武田信吉
松平忠輝
松平松千代
平岩仙千代
徳川義直←尾張徳川家の始祖
徳川頼宣←紀州徳川家の始祖
徳川頼房←水戸徳川家の始祖
★女子
亀姫
督姫
振姫
松姫
市姫
男子で松千代、仙千代というのは幼名です。幼いころに亡くなったからこのままなのです。
ではでは、少しですが、家康の子供(実子16人)がどのような生涯を送ったのか、ご紹介します。
【長男】松平信康
生没年:1559-1579
母:築山殿(つきやまどの)
松平信康は家康の嫡男でした。順当にいけば、彼が後継ぎだったのです。
1570年には岡崎城主になり、できる武将で「長篠の戦い」でも活躍していたんですよ。
でも、母の築山殿とともに武田氏への内通を疑われて切腹させられてしまいました。このときの切腹の理由は、今も謎が多く残ります。
【次男】結城秀康
生没年:1574-1607
母:小督局(こごうのつぼね)
家康の次男・秀康は、次の跡継ぎになる立場でしたが、1584年の「小牧・長久手の戦い」(家康が秀吉に負けた戦い)の後に豊臣秀吉の養子になって、羽柴秀康を名乗りました。
九州征伐、小田原攻め、朝鮮征伐などに参加しますが、秀頼が生まれると、北関東の結城氏の養子になりました。
【三男】徳川秀忠
生没年:1579-1632
母:西郷局(さいごうのつぼね)
家康の後継者として、江戸幕府2代将軍に就任します。
できる長男に比べるとぱっとしない冴えない後継ぎですが、決められたことをきちんと守り抜いたところは2代目として適任でした。
彼は家康の死後、父の敷いたレールをゆるぎない物にするよう幕府の体制強化に勤めました。
【四男】松平忠吉
生没年:1580-1607
母:西郷局
松平忠吉は、井伊直正の娘婿になり、関ヶ原の戦いで初陣を飾りました。
井伊隊の中でも勇猛な働きをし、島津豊久を討ち取るなどの功績を残しています。
美男で知られ人望もある武将だったのですが、関ケ原で受けた傷がもとで亡くなりました。
そういえば、同じくイケメン赤鬼・井伊直政も、関ケ原で受けた鉄砲傷で敗血症になって亡くなってます。当時は医療が発達していなくて衛生状態も悪かったので、傷が悪化することが多かったのでしょう。残念!
【五男】武田信吉
生没年:1583-1603
母:下山殿(しもやまどの)
信吉は母の下山殿が武田氏家臣・穴山氏の養女だった縁で、武田氏の家督を継ぎました。
でも、もともと彼は体が弱く、21歳の若さで夭逝してしまいました。
【六男】松平忠輝
生没年:1592-1683
母:茶阿局(ちゃあのつぼね)
松平忠輝は、1599年に長沢松平家の家督を相続しました。
不細工だったので父の家康にうとまれた、やんちゃ過ぎたので嫌われたなどの言い伝えがあり、とにかく家康に相手にされなかったようです。
兄の秀忠から改易されて流罪が重って、幽閉されたまま亡くなりました。でも、90歳オーバーというご長寿でした。伊達政宗の娘と結婚しています。
【七男】松平松千代
生没年:1594-1599
母:茶阿局
松平松千代は、松平忠輝の同母弟でも、もともと彼が長沢松平家の家督を継ぐ予定だったのですが、5歳でなくなりました。
だから、名前は幼名「松千代」のままなのです。
【八男】平岩仙千代
生没年:1595-1600
母:相応院(そうおういん)
仙千代も、幼いころに(5歳)亡くなりました。
彼は生後すぐに長兄の信康の傳役(もりやく)・平岩親吉の養子になっていました。
【九男】徳川義直
生没年:1601-1650
母:相応院
徳川義直は、尾張清州藩主となって尾張徳川家の始祖となりました。
内政に力を入れ、学問を奨励したよい君主だったと伝わります。
【十男】徳川頼宣
生没年:1602-1671
母:養珠院(ようじゅいん)
徳川頼宣は水戸・駿府藩を経て紀州藩主となり、紀州徳川家の始祖となりました。
紀州徳川家の御家柄に相応しい豪快な人物だったと伝わります。70歳近くまで長生きし、紀州の長老として慕われていました。
【十一男】徳川頼房
生没年:1603-1661
母:養珠院
徳川頼房は、水戸徳川家の始祖です。
人の好き嫌いが激しい3代将軍家光になつかれて、江戸に常住することになりました。
この頃から、水戸藩主が「副将軍」と呼ばれるようになります。
【長女】亀姫
生没年:1560-1625
母:築山殿
亀姫は嫡男だった松平信康の同母妹で、奥平信昌に嫁ぎました。
夫婦仲がとてもよく、4男1女をもうけています。信昌は生涯側室を置かなかったと伝わります。
孫たちの後見を務めるなど、面倒見の良い人だったようです。
【次女】督姫
生没年:1565-1615
母:西郡局(にしごおりのつぼね)
督姫(とくひめ)は北条氏直に嫁ぎ、そこで1男2女をもうけました。
北条氏が滅亡して氏直が死去した後は、池田輝政に嫁ぎました。輝政との間に5男2女をもうけています。たくましいです。
【三女】振姫
生没年:1580-1617
母:お竹の方
振姫は蒲生秀行(がもうひでゆき)に嫁ぎ、2男2女をもうけました。
夫の死後、政略結婚で今度は浅野長晟(あさのながあきら)と再婚しました。
その後、出産が原因で亡くなりました。
【四女】松姫
生没年未詳
母:お梶の方
松姫はどういう女性だったのか、記録にほとんど残っていません。
【五女】市姫
生没年:1607-1610
母:お梶の方
市姫は伊達政宗の息子の伊達忠宗と婚約していましたが、4歳のときに病死してしまいました。
おわりに
ああ、実子だけでもたくさんいましたね~。
もう一度まとめると
↓
実子:16人(男子11人・女子5人)
猶子:1人(男子)
養子:21人(男子3人・女子18人)
合計38人です!
養子は女の子がぐんっと多いですね。
これはこの時代によくあった政略結婚の手ゴマにするためですね。
そう思うと、シビアな世だったんだな~とつくづく思います。
徳川家康に関する記事は、こちらにもあります。ぜひご一緒にどうぞ♪
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