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こんにちは。
 
 
いつの時代も国や組織の2代目は難しいものです。
 
 
徳川家の場合、家康と3代目の家光が結構有名で、真ん中の2代目がパッとしない印象ですね。
 
 
でも、2代将軍・秀忠は家康にとって理想的な後継者だったのかもしれません。
 
 
彼は家康の三男だったのですが、後継ぎに選ばれました。なぜでしょうね。

 
 

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長男・次男がいろいろあって三男だけど後継ぎに

 

 
徳川家康は、かなりの子沢山でした。
 
 
子供は実子だけで16人!
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徳川秀忠は、1579年に家康と西郷局(さいごうのつぼね)との間に生まれました。
 
 
母の西郷局はとても優しく慈悲深い女性で、家康と仲むつまじかったそうです。
 
 
家康の嫡男は今川家の姫・正室の築山殿(瀬名姫)と間に生まれた信康でした。でも彼は武田家と内通しているという謀反の疑いをかけられ、母と共に処刑されたのです。(信康は切腹)
 
 
そして、次男の秀康は、豊臣秀吉の養子(人質だけど)になったので、徳川家を離れていました。
 
 
次に繰り上がった三男の徳川秀忠が、後継ぎになったというわけです。
 
 
でも、まだまだ戦国の社会です。上から順番という理由だけで決めたのではないのかもしれません。
 
 
家康の嫡男・信康は、勇猛で知られる有能な息子でした。そういう野心家の息子は、下剋上の時代には家が分裂する原因になりかねません。
 
 
そういう意味でも、反逆心があまりなく穏やかな秀忠は2代目にふさわしいかったでしょう。(母もよい人ですし)

 
 

戦はかなり苦手だった?

 

 
徳川秀忠は、多分性格に覇気がないからでしょうけど、あまり武将としてはパッとしません。
 
 
後世の評価がもひとつなのは、その辺りにありそうです。彼は大きな合戦で、どんくさいことをやらかしてしまったのです
 
 
その合戦は、1600年「関ケ原の戦い」です。
 
 
父・家康が東軍を率いたこの戦いで、決戦の地・関ケ原に、秀忠は大遅刻してしまったのでした。
 
 
「関ヶ原の戦い」のとき、東海道を進んだ家康とは別に、秀忠は主力部隊3万8千を率いて中山道を進んでみました。
 
 
そのとき、真田昌幸・信繁(幸村)父子がたてこもる上田城を攻め、この城の攻略に手間取ってしまったのです。
 
 
その後も天候不良など不運が重なって予定より大きく遅れ、結局、関ケ原についたのは全部終わった後でした。
 
 
合戦の後、父・家康にはなかなか会ってもらえず、重臣の榊原康政の取り成しでようやく対面を許されたそうです。でも、おとがめなしとなっていますよ。
 
 
また、「大坂の陣」では、逆にまた遅刻しては大変だと張り切って行軍を急がせ過ぎて、着いた頃には兵はへとへと、これまた家康に叱責されました。
 
 
真面目な性格が裏目に出たのでしょう。
 
 
でも、家康は秀忠に勇猛な武将になってほしいと願っていなかったかもしれません。
 
 
彼は真面目で冷静な性格だったので、戦のない世を作るのに向いていました。そして、その実直さが人望を集め、家臣に恵まれていたのです。

 

 

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内政の能力は高かった!

 

 
徳川秀忠は、家康の敷いたレールをきちんと引き継ぎ、江戸幕府260年余の基礎固めという大きな功績を残しました。
 
 
そしてまず、これから幕府の大きな決まり事となる2つの法令、公家諸法度武家諸法度を作りました。
 
 
これらは家康と共に作り上げたものですが、父ときちんとコミュニケーションが取れていて、一緒に徳川幕府を強固なものにしようという意志があったとわかります。
 
 
また、家康の死後、自分に従わない弟の松平忠輝や重臣だった本多正純の領地を没収して、反対派勢力を早いうちに退けるという冷徹な判断も下しています。
 
 
もう1つ、徳川幕府を強化させるための大きな功績は、年の離れた3人の弟をそれぞれ、尾張、紀伊、水戸に置いて「徳川御三家」を作ったことでしょう。
 
 
これらの事から、秀忠は非常に冷静に判断できる政治家的な人で、実務能力も高かったとわかります。

 
 

恐妻家で側室を作らなかった?

 

 
徳川秀忠は、17歳のとき浅井三姉妹の三女・江姫(ごうひめ)を正室に迎えました。
 
 
浅井家の姫君は、そろいもそろってプライドが高く勝気な性格をしていました。そして、嫉妬深いです。
 
 
江姫は秀忠より6歳年上で、それまで2度結婚していました。
 
 
秀忠は恐妻家として知られていて、将軍なのに正式には側室を作りませんでした。
 
 
正式には・・・
 
 
なぜ公に作らなかったのかというと、気に入った女性が身ごもったとき、それを知った江姫がその女性を脅迫して、子供をおろさせたことがあったのです。
 
 
大河の「お江」とはえらく違いますが、戦国時代は女もこんな風に戦っていたのでしょう。
 
 
その女性は「静」(しず)という身分の低い女中でした。
 
 
秀忠は静のことがかなり好きだったらしく、彼女はもう一度子供を身ごもりました。
 
 
秀忠とごくわずかな側近は、次の子はなんとしても守りたいと思い、江姫に隠して産み育てさせたのでした。
 
 
それが後に江戸時代屈指の名君となる保科正之です。
 
 
保科正之は、一言でいうと超すごい人で性格もよかったので、後に弟と分かった徳川家光に好かれて重用されました。(江姫が死んだ後です)
 
 
自分の子供を身ごもった女性を追い詰めたとして、秀忠は江姫を叱ってもよかったと思うのですが、そういうことをしない性格だったのでしょう。
 
 
でも、正室の江姫との仲は悪かったわけではなく、7人(2男5女)子供を授かっていますよ。
 
 
江姫は3代将軍・家光の生母でもありますし、長女の千姫は岡山藩池田家へ、二女の珠姫は加賀前田家へ、そして、五女の和子は天皇家に嫁いでいます。

 
 

徳川秀忠の簡単年表

 

・1579年(1歳)
徳川家康の三男として誕生。
嫡男・信康が切腹。(信康事件)
 
・1584年(6歳)
次男・秀康が豊臣秀吉の養子になり家康の後継に
(秀康は35歳で他界)
 
・1595年(17歳)
浅井三姉妹の三女・江姫と結婚。
 
・1600年(22歳)
「関ヶ原の戦い」
→「第二次上田城の戦い」で手間取り関ケ原に遅刻。
 
・1603年(25歳)
父徳川家康が征夷大将軍となる。
 
・1605年(27歳)
父・家康から征夷大将軍を譲られる。
→第2代将軍に就任。
 
・1614年(36歳)
「大坂冬の陣」
→総大将として豊臣家と戦う。
 
・1615年(37歳)
「大坂夏の陣」
→豊臣家を滅亡させる。
 
・1620年(43歳)
娘・和子が後水尾天皇に入内。
→天皇家と姻戚関係に。
 
・1623年(45歳)
隠居。
→嫡男・家光が第3代将軍に。
 
・1632年(54歳)

病没。
 
 

おわりに


 
徳川秀忠は、初代の家康、3代の家光に比べると地味な印象ですが、徳川家を支えたキーマンだったと思います。
 
 
真面目で実直という性格が後継ぎに相応しいと考えた家康の人を見る目があったのでしょう。
 
 
平和な社会を治めるのに適しているのは、英雄でなく秀忠のような冷静な人です。
 
 
彼は家康の政治家的な能力をきちんと受け継ぎ、徳川幕府の中央集権化に大きな功績を残した人でした。
 
 
徳川家の人々については、こちらでもご紹介しています。合わせてどうぞ♪
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