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こんにちは。
 
 
江戸幕府第3代将軍・徳川家光とは、どんな人だったのでしょう?
 
 
今回は、徳川家光の簡単な生い立ちと特徴、江戸幕府に残した功績についてお伝えします。
 
 
いろいろエピソードの残る人なので、個々の逸話は別記事でお伝えしたいと思います。

 
 

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徳川家光の生い立ち

 

 
1604年、徳川家光は2代将軍秀忠とその正室・江姫との間に将軍家の嫡男として産まれました。祖父は徳川家康です。
 
 
将軍の嫡男ともなれば、幸せな幼少時代だったように思えますが、家光の場合、まったくそうではなかったのです。
 
 
家光の両親、徳川秀忠と江姫(お江)は、弟の国松(後の忠長)を溺愛し、乳母の春日局に育てられた嫡男の家光に愛情を注いでくれることはありませんでした。(当時、武家の嫡男は生母ではなく乳母が育てるのが慣例だった)
 
 
家光は子供の頃、虚弱体質でとても内気な性格でした。その上、吃音(きつおん)でどもり気味だったため、あまり人前に出るのを好まない子でした。
 
 
一方、弟の国松は、容姿がよく利発で活発な子だったので、両親は国松こそが次期将軍に相応しいと思っていたのです。
 
 
家臣たちも後継ぎは国松と思うようになり、家光を露骨に軽んじるようになっていきました。
 
 
戦国時代は兄弟のうち優秀なものが家督を継ぐことが多かったので、家光は失意の日々を過ごしていました。
 
 
しかし、祖父の徳川家康はそのような乱世の慣習を改めたいと考え、長子相続を徹底しようとしたのです。そうして、3代将軍は家康の鶴の一声で家光に決まりました。
 
 
そんなわけで、家光はおじいちゃん大好きっ子でした。彼は家康を生涯崇拝していて、家康21回目の法要のときに、祖父を祀る日光東照宮(栃木県)の大改修を行っています。
 
 
1623年、家光が20歳のとき父の秀忠が隠居し将軍職を譲られました。

 
 

武家諸法度改訂と参勤交代

 

 
将軍に就任した家光でしたが、父の秀忠は隠居した後も引き続き幕府の実権を握り続けたので、家光はまだ自分の思うような政治を行う事ができませんでした。
 
 
1632年、秀忠が彼が亡くなると、ようやく家光は将軍の権力を手に入れました。そして、彼はまず旗本を再編し、幕府に老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を設け、幕府の体制強化に努めたのです。
 
 
また、幕府に反発する有力大名の改易と転封を行い、徳川家の中央集権支配をさらに固めていきました。
 
 
家光の代で取り潰された大名は44家にも及びます。そして、彼は敵対する恐れのある弟の忠長を自害に追い込みました。
 
 
1635年には武家諸法度を改訂し、諸大名に参勤交代を義務づけることにしました。
 
 
武家諸法度とは武士の守るべき決まりを定めたものです。家康・秀忠が江戸幕府を長く続くために作ったこの決まり事を、家光は強化させたのです

 
 

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「島原の乱」とキリシタンの弾圧

 

 
1637年、天草四郎らによる「島原の乱」が起こるとこれを徹底的に鎮圧し、これ以降、キリスト教禁教を徹底してキリシタンを弾圧していきました。
 
 
そして、キリスト教を布教するポルトガル(カトリック)とは決別し、1641年にはオランダ商館を長崎の出島に築き、交易相手国をキリスト教布教をしなかったオランダと清(中国)に限るという鎖国政策を完成させたのです。

 
 

「大奥」が世継ぎを作るための機関に

 

 
家光は3代目の将軍として内政・外交にしっかり取り組みましたが、もう1つ将軍には大きな任務がありました。
 
 
それは、後継ぎを作ることです。家光は公家出身の正室・鷹司孝子(たかつかさたかこ)と仲が悪く、世継ぎが生まれませんでした。
 
 
徳川家光は若い頃は男性にしか興味がなかったともいわれ、乳母の春日局はそのことに頭を悩ませていました。
 
 
そこで、彼女は「大奥」にいろんなタイプの美女を募って、徳川家光の好みの女性を探すことにしたのです。
 
 
そうして、ようやく女性にも興味を持つようになった家光が側室・お振に産ませたのが、千代姫(1637年生)でした。
 
 
その後、1641年には側室・お楽(宝樹院)が、4代将軍となる徳川家綱を出産しました。
 
 
こうして「大奥」は、将軍の世継ぎを設けるための機関として機能していくようになったのです。

 
 

徳川家光の簡単年表


 
・1604年(0歳)
徳川秀忠と江姫(お江)の子として誕生。
 
・1606年(3歳)
弟・徳川忠長(ただなが)誕生。
 
・1616年(12歳)
祖父・徳川家康が病没。
 
・1623年(20歳)
徳川幕府第3代将軍に就任。
 
・1625年(22歳)
摂関家(公家)の鷹司孝子と結婚。
 
・1626年(23歳)
母・江姫病没。
・・1632年(29歳)
父・徳川秀忠が病没。
 
・1635年(32歳)
「武家諸法度」改定
→大名に「参勤交代」を義務付け。
 
・1637年(34歳)
「島原の乱」

 
・1641年(38歳)
長崎の出島以外で海外との貿易を禁止。
清(中国)とオランダとだけ交易を続ける。
 
・1642年(39歳)
「寛永の大飢饉」が起こる
 
乳母・春日局病没。
・1651年(48歳)
徳川家光病死。
→長男・家綱が4代将軍に就任。

 
 
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