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紀元前11世紀ごろ、中国大陸には「殷(いん)」という王朝が栄えていました。
 
 
「商」ともよわれるこの王朝は、紀元前1600年ごろから紀元前1100年ごろまで、約500年続いた由緒ある大国でした。
 
 
そんな長く続いた王朝の最後の王が、今回ご紹介する「帝辛(ていしん)」です。彼は「紂王(ちゅうおう)」という呼び名で広く知られています。
 
 
この王様、暴君として有名ですが、実はすごく有能な君主だったんですよ。でも、国を滅亡に導いてしまいました。
 
 
500年も続いた王朝なのに・・・

 
 

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紂王は才色兼備・文武両道の王

 

 
なにぶん、かなり昔の話なので、紂王(ちゅうおう)について伝わるものはほぼ伝説です。(「史記」の記録です)
 
 
それによると、殷王朝第30代の帝辛(紂王)は、かなり優れた君主でした。
 
 
彼は輝くばかりの美貌の持ち主で、頭の回転が速く弁舌さわやかな切れ者でした。また、武術にも秀で素手で虎を倒すほどの怪力の持ち主でした。
 
 
まさに、才色兼備、文武両道の王ですよ。
 
 
そんな選ばれし優秀な人の苦悩は、いつの時代も凡人には計り知れないもの・・・
 
 
王の目には、家臣たちはどいつもこいつも無能の役立たずに見えてしまいました。
 
 
そして、イラっとする家臣を遠ざけたり処分したりしていくうちに、彼の周りにはイエスマンしかいなくなってしまったのです。
 
 
王位に就いた頃の紂王は、真面目に王の務めを果たしていましたが、いつしかそれもあほらしくなり、政治に興味を失くしていったそうです。
 
 
そんな折りに献上されたのが、稀代の美女、妲己(だっき)でした。

 
 

愛妾「妲己」と酒池肉林

 

 
妲己は紂王が討った有蘇氏の娘でした。戦で負けたので、娘を献上したんですね。
 
 
「史記」によると、紂王は美しく朗らかで楽しみを考え出すのが上手な妲己に夢中になり、彼女のいう事ならなんでも聞いてあげたそうです。
 
 
紂王と妲己の淫靡でサイコなお愉しみはこちらに→
 
 
紂王は妲己のために残虐な刑罰を考え出し、2人で楽しみながら刑の執行を鑑賞しました。
 
 
そんな王の所業を見かねた忠臣・比干(ひかん)は、紂王の叔父だったので、遠慮なく王をいさめました。
 
 
すると、紂王は「お前は聖人といわれるそうだな。聖人の心臓には7つの穴があるというが、それを今確かめよう」
 
 
そういって、比干の心臓をえぐりだしてしまったのです。
 
 
そんな風に、紂王の言うことを聞かない家臣や愛妾はことごとく処刑され、肉の塩辛や干し肉にされてしまいました。
 
 
食糧・・・?
 
 
当時の中国では、そんなに珍しいことではなかったでしょう。
 
 
とにかくあまりにひどい恐怖政治をしいたため、家臣・民衆の心はどんどん紂王から離れていきました。

 
 

紂王、周の武王に討たれる

 

 
紂王の傍若無人な統治は、国内だけでなく近隣諸国からも恨みを買っていました。
 
 
周の文王は紂王に子供を殺され、その子の肉入りスープを飲まされました。人肉を食べる事自体は珍しくなくても我が子のと考えると、えぐすぎますね。
 
 
そうして、周の文王の息子の1人・武王が、力をつけついに殷を倒すべく立ち上がったのです。
 
 
武王は周辺諸国に働きかけ35万の連合軍を結成しました。合戦の場所は殷の南郊です。
 
 
それに対し、紂王は約70万の大軍で迎え撃ちましたが、兵士のほとんどが奴隷で戦意がなく、武王が来るのを待ち望んでいたというありさまでした。
 (「牧野の戦い」)
 
戦争は単純に数ではないんですよね。
 
 
紂王は首都に逃げ帰り、焼身自殺して果てました。あっけない最後でした。
 
 
そうして、500年続いた殷王朝は滅亡したのです。
 
 
妲己も、このとき武王に殺されたと伝わります。

 
 

紂王は本当に暴君だったのか?

 

 
歴史は常に勝者が作るといわれます。
 
 
学校で習う「歴史=正史」は「勝者が発信した歴史」なのです。
 
 
敗軍の王や将は、勝者の手で作られた歴史書の中で、愚かで残忍な人物にゆがめられることが多いです。
 
 
殷の紂王の伝説のほとんどは、前漢の武帝の時代、司馬遷が編纂した中国の正史「史記」によります。
 
 
「史記」は中国の正史、紂王の記録は当然ながら彼を滅ぼした周王朝の残した記録です。
 
 
そう考えると、文武両道の切れ者だった紂王が、やりたい放題の考えなし暴君になったというのは話がぶっ飛びすぎと思えませんか?
 
 
たとえば、酒池肉林
 
 
「池に酒を注いでみたし、子豚の丸焼きを林のように林立させ、全裸の美男美女にその間をおいかけっこさせる」という、紂王と妲己が好んだ悪趣味な乱交パーティーのことです。
 
 
全裸で追いかけっこ・・・何が楽しいのかよくわからんです。
 
 
ところが、この酒池肉林、当時の殷の「祭祀」だったのではないかという説があります。池に酒を注ぐ祭祀です。
 
 
殷の王は神の代理人、祭祀主催者を兼ねていました。古代中国の王朝は、卜占による神権政治が行われていて、紂王は歴代の王の中でも突出して熱心に祭祀を行った王でした。
 
 
宗教熱心でしっかり仕事してる王じゃないかと思えます。
 
 
また、周に滅ぼされた「牧野の戦い」は、紂王の精鋭部隊が東方に出陣したスキを狙って、周と諸国の連合軍が殷を攻めたと考えられています。
 
 
当時、周の武王は殷に属し、西方の統治を任せられていました。東を攻めているとき、西から反乱を起こされたのです。
 
 
紂王は領土を広げることもきちんと考え、経済の流通を発展させようとしていたとも伝わります。
 
 
四六時中、妲己と遊び惚けていただけの人とは思えません。
 
 
よくよくみていくと、暴君説は大きく差し引いて考えるのが妥当だなと思えるのでした。
 
 
妲己も残忍な悪女ではなく、ただ王に愛されたとびっきり魅力的な美女だったのかもしれませんね。
 
 
歴史(正史)は勝者が作ったものというのを、いつも頭の片隅に置いておくことが大事だなと思うのでした。

 
 

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