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中国の有名な悪女の凄い所は、そのスケールのでかさです。
今回ご紹介する呂雉(りょち)は、中でも中国三大悪女の1人に数えられます。
ちなみに、あとの2人は則天武后(そくてんぶこう)と西太后(さいたいこう)です。
呂雉(りょち)は、「漢」の高祖・劉邦の妻で、とんでもない野心家で嫉妬深い女性だったと伝わります。
夫の寵愛をほしいままにした側室への仕打ちが残虐極まりなく、実の息子もドン引きするほどでした。
夫の立身出世を支えた妻
「キングダム」でおなじみの秦の始皇帝は、中華の統一を成し遂げましたが、後継者育成が残念だったため、彼の死後、あっという間に「秦」は分裂してしまいました。
せっかくがんばって統一したのにね。
力のある地方の豪族が次々と反乱を起こすようになり、中華は統一前の乱世に逆戻りです。
沛県で独立を掲げた後の呂雉の夫・劉邦は、そんな豪族の1人でした。
劉邦はもともと貧乏で身分の低い役人でしたが、沛県の名士だった呂公に才能を買われ、その娘を嫁にもらったのです。それが呂雉(りょち)でした。
戦いにあけくれ留守ばかりの男に嫁いた呂雉は、苦労しながら子供たち(1男1女)を育てました。
秦王朝が滅んでから5年間ほど続いた「楚漢戦争」で、ついに劉邦は敵の項羽(こうう)を破り、新しい統一王朝「漢」を成立させました。
そうして、呂雉(りょち)は、「漢」の皇后(つまり「呂后」)となったのです。
後継者争いで息子のライバルを処刑
「漢」の高祖となった劉邦、次は皇太子選びで側室の息子たちと後継争いが起こります。
呂后には息子・劉盈がいましたが、側室の子・如意が最大のライバルになりました。
如意の母は、劉邦の寵愛を一身に受けていた側室の戚姫でした。彼女にせがまれた劉邦は如意を皇太子にしようと決め、重臣にそう話しました。
呂后は内心はらわたが煮えくり返っていたでしょう。
でも、彼女は賢い女性でした。嫉妬に狂ってわめくようなことはせず、冷静に考えられる頭脳をもっていました。
だから、表立っては反対せず、重臣たちに根回し攻勢をかけたのです。
そうして、重臣たちの口から「嫡子をしりぞけ庶子を皇太子にするのはいかがなものか」と劉邦に反対するように仕向けました。
そうして、皇太子は呂后の子・劉盈(恵帝)に決まったのです。
戚姫への残虐な復讐・人豚事件
やがて、劉邦が亡くなり、「漢」の2代皇帝に呂后の息子・劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后として一気に権力を振りかざし始めました。
彼女真っ先にとりかかったのは、憎き戚姫への復讐です。
呂后は戚姫をとらえて奴隷の身に落とし、当時、趙王となっていた彼女の息子・如意を呼び寄せて殺そうとしたのです。
母の怖ろしい計画を察知した息子の恵帝は、なんとかそれを阻止しようとしました。
恵帝は母とは違って心優しい人柄で、弟の如意を守ろうとして、常に自分のそばにいるようにしたといわれます。
でも、呂后の執念はその上をいきました。恵帝のすきを狙い、とうとう如意は暗殺(毒殺といわれる)されたのです。
彼女の本当の復讐劇は、これからでした。
まず、呂后は如意の死を母の戚姫に伝えました。
そうして、悲しみのドン底に突き落としたところで、戚姫にのどと耳をつぶす薬を飲ませて、両目をえぐり取り、すべての手足を切り落としました。
それから、四肢を失った戚姫を厠(トイレ)に閉じ込めて家臣たちに見せ、「人豚」と呼ばせて笑ったのです。
(※当時の中国は、厠の下に豚小屋を置き、豚に排泄物を食べさせて処理していたそうです。)
呂后は排泄物にまみれ変わり果てた戚姫の姿を、息子の恵帝を呼んで見せました。
その光景を目にした恵帝は、母の恐ろしい所業に激しいショックを受け、寝込んでしまったそうです。
「呂氏」一族で政治を独占
その後も呂后は、自分の権力を盤石なものにしようと画策していきました。
息子の正妻(皇后)には、自分の娘の子(呂后の孫娘)を迎えることに決めました。
恵帝とは、叔父と姪の関係にあたる娘です。
でも、残念ながら彼女には子供が生まれたなかったため、呂后は側室が子を出産すると、それを皇后の子と偽って生母の側室を殺しました。
そんなやりたい放題の母の所業にすっかり嫌気がさした恵帝は、政治にやる気を失って酒浸りになり、20代で病死してしまいました。
呂后は息子の死をそれなりに悲しみましたが、仕方がないので孫(恵帝の子)を幼い皇帝に就かせ、そのまま権力を握り続けました。
そして、自分の一族「呂氏」を重用して、次々に国家の重要なポジションにつかせました。そして、彼女に反対する者やそのおそれのある者を、徹底的に排除していったのです。
そんな彼女も病には勝てず、ついに呂后は病死しました。
彼女の死後、すぐに他の劉邦の息子たちと遺臣たちのクーデターが起こります。そうして、彼女の親類・呂氏一族は、一掃されたのです。
この呂后の元で乱れた「漢」を見事に立て直したのが、劉邦の四男(庶子)の文帝(劉恒)でした。
文帝のもとで、「漢」は無事に軌道修正されて発展していったのです。
おわりに
呂雉(りょち)の人柄は「史書」でしかはかり知れないことなので、どこまで本当かはわかりません。
一族郎党が重用されたというところから、もしかしたら楊貴妃のように親戚の出世に利用された人で、残虐さはクーデターを起こした人たちのプロパガンタだったのかもしれません。
戚姫にしたとされる残虐行為が本当なら、相当深い恨みがあったでしょう。
母の所業に引きまくっていたとされる息子が心優しい人柄と伝わるのは、劉邦の子だからそういうことにしたのかな(高祖の名を汚さないため)とも思えます。
いずれにせよ、権力欲の強い女性だったのは、確かでしょう。
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