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中国四大美人の一人といわれる美女代表、唐の玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃。
白居易の漢詩『長恨歌』に描かれる彼女はたおやかで儚げな美女という感じですが、実際は陽気で気さくな人だったとも伝わります。
今回は唐の衰退の一因になったという傾国の美女・楊貴妃の生涯をご紹介します。
18皇子・寿王の妃として入内
楊貴妃は719年、蜀の役人の娘として生まれ、名は玉環といいました。両親を亡くした玉環は叔父の元で育ち、16歳のときに洛陽で見初められ玄宗皇帝の息子・寿王(18皇子)の妃になりました。際立つ美貌だったのでしょう。
寿王の母の武恵妃は、当時玄宗にもっとも愛されていた妃でした。ですから、寿王も前途洋々と皆が思っていたのです。ところが、楊貴妃が嫁いで数年後、その武恵妃が病で亡くなってしまいます。寿王は大きな後ろ盾をなくしたことになりました。
武恵妃は当時まだ39歳という若さで、彼女を深く愛していた玄宗皇帝は、すっかり意気消沈してしまいました。
玄宗は治世の前半は「開元の治」と呼ばれる唐の最盛期を築いた皇帝でしたが、晩年はしだいに政治に興味を失っていきました。27歳で皇帝になってから、もう30年近く経っていました。
あるとき、皇帝一家は温泉旅行に行くことになり、寿王と楊貴妃もそれに同行することになりました。そして、その温泉地で玄宗は改めて楊貴妃の美しさに気づき、心を奪われてしまったのです。
楊貴妃21歳、玄宗皇帝55歳のときでした。
皇帝の貴妃になる
楊貴妃をぜひとも自分のものにしたいと考えた玄宗は、姑の武恵妃を弔うためという名目でいったん彼女を出家させます。
そうして、彼女に世俗とのしがらみをいったん捨てさせ(つまり寿王との結婚もなかったことにし)、還俗させて改めて自分の妃にしたのです。息子の嫁を奪うわけなので、いくら皇帝でも世間の目を気にしたということでしょうか。
嫁といっても当時の皇帝や皇子はたくさん側室を持っていたので、寿王も一人ぐらい譲ってもいいよという気分だったのかもしれません。ちなみに玄宗は、子供が60人いたそうです。
そうして、皇帝の後宮に入った楊貴妃は、それから16年間、最期の時を迎えるそのときまで玄宗皇帝の最愛の妃であり続けました。
豊満で音楽舞踏の才に富む美女
楊貴妃は色白、柳眉の美女でかなりふっくらした女性だったと伝わります。
白居易の『長恨歌』で、むっちりとした白い肌の持ち主だった(「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」)と書かれた、また当時描かれた絵(貴妃出浴図)の楊貴妃が太っていた、などなど理由は諸説ありますが、実際は分かりません。
もしそうだったとしても、楊貴妃は笛や琵琶など楽器の演奏が上手で、当時の流行のかなり激しい踊りの名手でもあったので、グラマラスで健康的な女性だったのではないでしょうか。
また、彼女は高い教養があり機転の利く話し上手で、皇帝にも媚びへつらうことなく思ったことをはっきり言う性格だったと伝わります。
親子のような年の差(34歳差)だったので、そういうところも、かえってかわいいと思えたのでしょう。
楊一族の台頭
玄宗の楊貴妃への寵愛はたいへんなもので、彼女の望みはなんでも叶えるという勢いでした。彼女の好きなライチ(レイシ)を遠く離れた広東省から何度も早馬で運ばせたという話はよく知られています。
楊貴妃は教養豊かで詩歌にも通じていました。50代半ばの玄宗の話し相手として、十分な資質を備えていたのです。
そして、寵姫の一族が宮廷内で権勢をほしいままにするというのは、中国王朝ではよくあることでした。
楊貴妃の兄姉たちや親戚が重んじられ、彼らはどんどん傲慢になっていきました。中でも、又従兄弟にあたる楊国中は権勢欲が強く、政治を任されていた宰相の李林甫が亡くなると、実権を握ってやりたい放題になっていきました。
官吏の多くはそんな彼に取り入ろうとたくさんの貢ぎ物(賄賂)を捧げましたが、反発する者ももどんどん増えていきました。
これも王朝衰退期によくあるパターンです。
安禄山と「安史の乱」
皇帝のもとには、毎日その権勢にあやかろうと多くの人たちが集まってきます。その中の一人に安禄山という武将がいました。
安禄山は西方のソグド人と突厥人との間に生まれた、彫が深くひげの濃い巨漢の武人でした。彼は節度使の張守珪の部下で、戦功を立て玄宗と楊貴妃に貢物攻勢をかけるようになります。そうして、すぐに彼らの信用を勝ち取ることに成功したのです。
安禄山は野心家でしたが、玄宗と楊貴妃の前では徹底的に媚びへつらいました。また、彼は話術に富み人を楽しませる才能があったので、暇を持て余し気味な彼らにとって楽しい話相手となったのです。
そうして、彼は3つの節度使を兼任し大きな兵力を持つようになりました。その頃には、体重約200㎏の巨漢になっていたそうです。
安禄山の野心を見抜いた人は、皇太子や楊国中はじめ数多くいましたが、玄宗はそれらの箴言をすべて退け安禄山を信用し続けました。
やがて政治の実権を楊国中が握ると、安禄山との確執はどんどん深まっていきました。
そうして、755年、とうとう彼は反乱を企てたのです、
安禄山は戦いに長けた武将でしたが、その頃には巨漢で糖尿病を患い、それが原因で失明したり腫瘍ができたりして思うように動けず、周りに八つ当たりすることも多くなります。
反乱は思ったように進まず、とうとう最期は安慶緒ら息子たちの手で暗殺されてしまいました。
安禄山亡き後、息子が乱を引き継ぎますが、安禄山の部下の史思明に滅ぼされ、内乱は続きました。763年、史思明の息子が唐軍に敗戦し、ようやく反乱はおさまったのです。(安史の乱)
楊貴妃の最期
「安史の乱」が勃発したとき、都(長安)にいた玄宗は激しく動揺しました。安禄山に謀反の意ありと多くの人が箴言したにもかかわらず、完全に無視した結果がこれです。
そのとき玄宗がとった行動は、楊貴妃と兵を連れて長安を捨て、楊貴妃の故郷の蜀地方への逃亡することでした。
追手が迫る危険な逃亡劇です。すでに、楊国中をはじめとする楊貴妃の身内は、敵対した唐軍の手で抹殺されていました。
「安史の乱」を招いたのは、政治の腐敗を招いた楊一族のせいという気運が高まっていたのです。
やがて、玄宗の兵士たちは、楊貴妃の処刑を強く要求するようになり、楊貴妃を連れて行くなら行軍を拒否すると言い出しました。このままでは玄宗までも兵に見捨てられかねな事態に陥ります。
とうとう側近の宦官、高力士の説得に応じ、玄宗は彼女の処刑を決定しました。
長安を出てわずか二日目、玄宗も楊貴妃もまさかこんな急な別れが待っているとは思っていなかったでしょう。
高力士から玄宗の命として死を賜ったとき、楊貴妃は静かにその運命を受け入れたそうです。
そうして、楊貴妃は白い絹の織物を梨の木にかけて首を吊りました。
楊貴妃の死後、玄宗は長安に戻りましたが、すでに皇太子が皇帝を名乗って権力を握っていました。その後、玄宗は軟禁され、楊貴妃を思いながら失意の日々を送り、ひっそりと亡くなったといわれます。
また、楊貴妃の処刑を聞いた安禄山は、自分が原因を作ったにもかかわらず、彼女の死を悲しみ数日間嘆き続けたそうです。
おわりに
楊貴妃の死は、「楊一族を全員粛清せよ」という唐の兵士の怒りによるものでした。皇帝を堕落させ、政治的混乱を引き起こしたという理由で、彼女は死を賜ったのです。
しかし、彼女は則天武后のような政治的野心はありませんでした。だから、彼女の死は悲劇として伝わるのでしょう。
実際は、燃え尽きた金持ちおじさんに惚れられた、若く美しい普通の女性だったのかもしれません。