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フランス革命に大きな影響を与えたアメリカ独立戦争についてお伝えします。
大航海時代以降、ヨーロッパ各国は競って海外に進出し、植民地政策に乗り出しました。
アメリカ大陸では、イギリス、フランス、スペインなどが領土を獲得しようと争っていたのです。
18世紀に入ると、イギリスはスペイン継承戦争、七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)の勝利を得て、北アメリカ東部の大部分を植民地化することに成功しました。
でも、戦争は莫大なお金を使う事業なんですよ。
多額の戦費による国家財政の圧迫は、フランス革命の原因の1つにもなりました。
イギリスはこの財政悪化をアメリカ大陸から税を取り立てることで改善しようとしたのでした。
それが、アメリカ独立戦争の大きな原因です。
目次
独立志向の高い「13植民地」
16世紀末のヴァージニアを皮切りに、イギリスはアメリカ大陸東部の植民地化を進めました。そして、18世紀に植民地数は13にのぼりました。
これらの13植民地は宗教的な理由によるピューリタンの入植者が多く、直接民主主義的な自治制度をつくっていたのです。
13植民地はイギリス本国からの独立意識を強く持っていました。
アメリカ独立革命は、イギリスの植民地支配からの「自由」と「独立」を求めた戦いだったのです。
イギリス本国からの課税に「No」
フレンチ=インディアン戦争の後、イギリスは多額の戦費負担で財政難におちいってしまいました。そして、それを植民地に課税して補おうとしたのです。
1765年、「印紙法」が施行されました。
これは、植民地で発行されるすべての印刷物対して課税するという法令でした。
出版物に課税されるというのは「言論・表現の自由」に触れるということです。それで、この法令は自治意識の強い植民地から猛烈な反発を受けたのです。
植民地側はイギリス本国議会に代表議員を送り込むことができなかったので、この決定は無効だと主張しました。
「代表なくして課税なし」という有名なスローガンが生まれたのはこのときです。
この植民地からの反発は、イギリス本国の予想を大きく上回るものでした。それで印紙法は翌年には廃止されたのです。
でも、その後もお茶や紙、ガラスなどの多くの輸入品に次々と課税され、植民地側の不満はどんどんつのっていったのでした
。
きっかけは「ボストン茶会事件」
とうとう、アメリカ新大陸の不平不満が爆発する出来事が起こりました。
それが1773年の「ボストン茶会事件」です。
植民地の急進派がイギリスの茶税法に反対し、ボストン港に停泊していた東インド会社の船から342箱もの「茶箱」(1万5000ポンド)を海に投げ捨てたのです。
イギリス当局は犯人をつかまえようとやっきになりましたが、植民地側は「ボストンで茶会を開いただけだ」と冗談を言ってごまかしとおしました。
それでこの事件は「ボストン茶会事件」と呼ばれるようになったのです。
これに対し、イギリス本国はボストン港を封鎖するなどの懲罰措置をとりました。
こうして、イギリスとアメリカ植民地は、一触即発のピリピリした空気になっていったのです。
レキシントンの戦い(アメリカ独立戦争勃発)
「ボストン茶会事件」はアメリカが独立戦争を起こすきっかけになった事件でした。
それから2年後の1775年、レキシントンとコンコードでついにイギリス軍と植民地軍が武力衝突したのです。
イギリス軍がボストン郊外の倉庫に蓄えられていた軍事物資を押収しようとして、植民地側の兵士が抵抗しました。
これを受けて、植民地側は13植民地すべてが参加する「第二回大陸会議」を開き、ワシントンを総司令官として、イギリス本国から闘って独立を勝ち取ろうと決めたのです。
翌年、トマス=ペインの「コモン=センス」が発行されました。
「コモン=センス」は「常識」という意味のタイトルです。
この本はベストセラーとなり、「われわれの自由と権利を侵害するイギリスから独立を求めるのは常識だ」という主旨が、世論を独立へと動かす大きな原動力となっていったのです。
アメリカ独立宣言(1776年)
1776年7月4日、大陸会議で「アメリカの独立」が宣言されました。
今でもアメリカ人はこの日を建国の記念日として大切にお祝いしています。
アメリカ独立宣言は、トマス=ジェファーソンが原案を起草し、アメリカの自由・平等など基本的人権を認め、イギリスに対抗する革命権を認めることを宣言するものでした。
この自由・平等を人間の生まれながらに持つ権利とみなす思想は、ヨーロッパにも大きな影響を与え、フランス革命を引き起こすことにつながりました。
その影響はフランスの「人権宣言」をみれば一目瞭然なのです。
ヨーロッパ各国の介入
「アメリカ独立宣言」は宣言されましたが、アメリカ独立軍はかなり苦戦を強いられていました。
アメリカ独立軍はプロの軍人集団ではなかったので、イギリスの軍隊にはかなわなかったのです。
こういうとき、ライバルイギリスを蹴落とそうとイギリスの対戦相手を応援するのが、ヨーロッパの列強のいつものやり方です。
そうして、1778年にはフランス、その後、スペインやオランダからの支援を受け、独立軍は戦いを続けることができました。
フランスのラファイエットやポーランドのコシューシコは、アメリカ独立戦争で活躍した外国の英雄たちでした。
ラファイエットは、フランス人権宣言に大きく関わる人物です。
ヨーロッパ各国の軍事援助を受けたアメリカ独立軍は、ついに1781年、ヨークタウンの戦いに勝利しイギリスから独立しました。
「パリ条約」でアメリカ独立
1783年、イギリスとアメリカは「パリ条約」を結び、アメリカ独立戦争は終結しました。
この講和条約で、イギリスは13植民地をアメリカ合衆国として正式に認め、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲したのです。
アメリカ合衆国憲法の制定
アメリカ独立革命は成功しましたが、しばらくの間、アメリカはもともと「13植民地」だった「13の州」から成るゆるやかな連合国のような形になっていました。
でも、強い中央政府が存在しない国だったため、各地でたびたび小さな小競り合いが起こりました。
そうして、このままではよくないので、アメリカに強い中央政府を樹立し憲法を制定しようという動きが生まれたのです。
1787年、フィラデルフィアで開かれた憲法制定会議で、人民主権・連邦主義・三権分立の3つを柱とする「アメリカ合衆国憲法」が作られました。
1789年には、アメリカ合衆国憲法のもとに連邦政府が発足し、ジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領に就任しました。
フランス革命のバスティーユ襲撃事件と同じ年ですね。
おわりに
イギリスの植民地の1つだったアメリカが独立革命を成功させたというニュースは、ヨーロッパに大きな衝撃をもたらしました。
当時のヨーロッパはまだ強い王様が君臨する「絶対王政」の時代です。
植民地の市民が自由と権利を求めて革命を起こすという画期的な出来事は、ヨーロッパの市民階級の心に大きく影響したのです。
こうして、フランス革命の下地が出来上がっていったのでした。
一方、アメリカは共和制になったのはよいものの、人種問題が棚上げされた状態でした。
これが、その後のアメリカの大きな社会問題となっていくのです。
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