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こんにちは。
今回は、現存している作品がたった35点!
なのに日本人に大人気で、よく展覧会が開かれるオランダ画家のフェルメールについて!!
とにかく、大人気の画家さんです。
ゴッホが彼のイエローとブルーとグレーのコントラストを絶賛したからか?などとも思いますが、私は「黒」の使い方が美しいと思いますよ。
とにかく作品や情報の少ない画家なので、ミステリアスな雰囲気が漂いますが、そんなに昔の人ではないので、また新たに作品が発見されるかもしれませんね。
目次
フェルメールの生涯を簡単に
フェルメールは、17世紀前半(1632年)、オランダのデルフトという町で生まれました。
時代はルネッサンスの後のバロック期です。
ルネサンスの人間回復の反動で、宗教画などが復活した時代ですよ。
お隣のフランドルでは巨匠ルーベンスが活躍した後、オランダではレンブラントが少し前に活躍しています。オランダ黄金時代の画家です。
フェルメールの父親は絹織物業、宿屋、画商などいろいろな商売をしていたので、彼は小さいころから絵画を見る機会があったようです。
10代後半から絵の勉強をし、21歳のときカタリーナ・ボルネスという女性と結婚しました。
それからすぐにでデルフトの「聖ルカ組合」に加入して、画家として独り立ちします。フェルメールは、若いころから画家として認められていたようですよ。
というのも、オランダの画家の組合「聖ルカ組合」の理事を最年少で2回(4年)務めているのです。これは異例なことで、このことからも高い評価を受けていたとわかるのです。
彼は、生涯デルフトで暮らしました。また、絵画の師匠はわかっていません。
今のところ、生涯に描いた絵は45点で、そのうち現存しているのが35点のみとされています。
私生活は11人の子供に恵まれ、画家だけでなく画商もして生計を立てていました。
1672年(40歳のとき)、第3次英蘭戦争でオランダの国土が荒れ、経済が行き詰って、フェルメールの絵画は1点も売れなくなってしまいました。
それからは、義母の貸金取立ての手伝いなどをしていたようです。フェルメールの義母はお金持ちの資産家でしたが、戦争の影響でかつてほど裕福でなくなっていました。
そして、事業が行き詰まり大きな負債を抱えたまま、病気で突然亡くなったのでした。享年43歳。
フェルメールは貧乏なだけでなく残した借金もたくさんありました。
「フェルメール・ブルー」と呼ばれる美しい青色は原料が高価だったため、絵の具代もとても高かったようです。
フェルメールの死後、奥さんは借金返せなくて自己破産を申請したといわれています。嫌です、こんな旦那。。。
フェルメールは、最終的には貧乏で不遇な人生だったのかもしれません。
オランダのような弱小国家は、戦争の爪痕が残りやすいです。当時、イギリスはチャールズ2世、フランスはルイ14世の時代ですから、絶対王政の時代です。
フェルメールの代表作品を5点紹介
フェルメールは、普通の庶民の生活の「日常の1コマ」を描いた画家です。
でも、描いた日常の中に漂う「静けさ」と「永遠性」が、他にはない独特の画風を作り上げています。
現存する作品の多くは小さな作品で、画面の左側から差し込む陽光に照らされた1人か2人の人物を描いたシンプルな構図です。
フェルメールは忘れ去られた画家でしたが、1866年にフランス人の美術評論家テオフィレ・トレ・ビュルガーが「フェルメールに関する研究論文」を発表したことで、一気に注目されました。
ビュルガーはフェルメールのことを「デルフトのスフィンクス」と呼びました。
それでは、フェルメールの代表作品を5つご紹介します。
(1)「レースを編む女」1669年頃
「レースを編む女」は、現在パリのルーヴル美術館が所蔵しているフェルメールの代表作品です。
黄色のショールを羽織る若い女性が左手に2つの糸巻きを持って枕にレース編みをしている絵です。
この作品は、フェルメールの現存する絵画の中でも最も小さな作品ですが、彼の作品の中で最も抽象的で独特性のある作品と評価されています。
背景が白一色なのは、中央部分だけに見る人の視線を集めるためと思われます。
後世のシュルリアリストのダリ(スペインの画家)が、フェルメールを絶賛してオマージュの作品を残しています。
ダリはかなり辛口の皮肉屋なのですが、なぜかフェルメール称賛しているので興味深いです。
「なんじゃこれ?」というようなダリらしいよくわからん絵ですけど・・・
↓
(2)「牛乳を注ぐ女」1658年-60年
「牛乳を注ぐ女」は、アムステルダム国立美術館に所蔵されています。
黄色の衣服と美しいブルーの色彩効果が素晴らしいですね。
この青色は「フェルメール・ブルー」と呼ばれるフェルメールの絵独特の色使いです。鉛スズを原料とした黄色と高価なラピスラズリを原料としたウルトラマリン(ブルー)が対照的に使われています。
左の窓から差し込む光の描写と白い壁にできる影を効果的に描いていますね。
(3)「真珠の耳飾りの少女」1665年
「真珠の耳飾りの少女」はおそらく日本で最もよく知られているフェルメールの作品ですね。
「青いターバンの娘」、「北のモナリザ」とも呼ばれます。
でも、「真珠の耳飾りの少女」というタイトルがいちばん素敵に感じますよ。「耳飾り」(イヤリングでないのが味噌)という古風な表現が肝なのです!
この作品は、背景が真っ黒というところが素敵すぎます。少女の絵が浮かび上がるように美しいですね。
太いターバンの「フェルメール・ブルー」に光が当たって、キラキラ輝いています。
真珠、トルコ風のターバンなど、このモデルの少女はかなりエキゾチックな恰好をしていますね。
当時のヨーロッパは、オスマン帝国の脅威にさらされていましたが、そのトルコや東洋の文化は異国情緒をそそる憧れの対象でもありました。
裕福な家庭の家具調度や衣装は、トルコやアジアからの輸入品も多かったようです。
そういう当時の風潮が表れているところも、おもしろいです。
(4)「地理学者」1669年頃
「地理学者」という題なので、この男性は学者さんですね。羽織っている衣装が印象的だと思いませんか?
ガウンのようなローブのようなものですが、実はこの衣装、「南蛮貿易」でオランダが輸入した「和服(着物)」をガウンに仕立て直した物なのです。
和服をガウンにアレンジするのは、当時のオランダ知識層の間で流行したファッションでした。おもしろいですね。
学者さんは知的作業に没頭していて、左の窓から陽光が降り注いでいます。その光の反射を明るい色で表したところが素晴らしいですね。
地理学者の右腕から胸左腕にかけてハイライトがかけられていて、明るさを演出しているところがフェルメールらしいです。
(5)「デルフト眺望」1660年-61年頃
最後は風景絵をご紹介します。
「デルフトの眺望」は、フェルメールが一生を過ごしたオランダのデルフトの町の様子を描いた油彩です。
フェルメールの作品の中でもかなり人気のある絵です。
時代的にはバロックなのですが、かなり空の色が明るく描かれていて素敵です。
あまりざわざわした感じがしない静けさのある風景画は、ずーっと見ていても飽きることがありませn。
ヨハネス・フェルメールの簡単年表
フェルメールは、生前画家としてあまり知られていなかったこともあり、年表でもわかっていることが少ないです。
・1632年(0歳)
10月31日、オランダのデルフトで誕生。
父親は画商をしていたこともある。
・1648年頃~(16歳)
デルフト以外の都市で修行
・1652年(20歳)
父親(レイニール・ヤンスゾーン)死没。
・1653年(21歳)
カタリーナ・ボルネスと結婚。
「聖ルカ組合」に加入。画家として独り立ち。
・1672年(40歳)
オランダ侵略戦争勃発(フランス軍がオランダに侵攻)
絵が売れなくなる。
・1675年(43歳)
12月15日 病死。