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こんにちは。
 
今回は「印象派」のピエール=オーギュスト・ルノアールについて!
 
 
ルノアールモネと並ぶ日本で大人気の印象派の画家ですね。
 
 
彼は女性を美しく描くのが上手な画家です♪
その理は、かなりの女好きだったからともいわれますよ。
 
 
ルネサンス期のラファエロの絵画も、女性(聖女)がすごく清楚で美しいですが、彼もすごい女好きでした。(性病うつされて早死にしてます)
 
 
やっぱり好きな対象は美しく描けるんだな~と思います。
ちなみに、ルノアールは、女性を「熟れた果実のようにみずみずしく」描くようにしていたのだそうです。
 
 
確かにそんな感じがしますね。少女の絵などはマシュマロみたいにふわふわで白くてかわいらしいです。

 
 

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ピエール=オーギュスト・ルノアールの生涯を簡単に

 

 
ルノワールは、1841年にフランス中南部のリモージュという町で貧しい仕立屋の子として生まれました。
 
 
3歳のとき、父親が豊かさ(職)を求めて一家でパリに移り住みました。
 
 
10代ではじめに就いた職は磁器の絵付職人の見習いでしたが、産業革命の機械化の影響で磁器絵付けが衰退し、失業していましました。(17歳)
 
 
その後は家計を助けるために、扇子の絵付けや鎧戸のペンキ塗りなど職人の仕事をこなします。
 
 
そして、1861年(20歳)に、画家になる決心をしてシャルル・グレールの画塾に入りました。
 
 
この画塾でのちに共に活躍するモネ、シスレー、バジールなどの画家と知り合いました。
 
 
ルノアールは、1864年、23歳のとき初めて「サロン」(官展)入選を果たしています。
 
 
当時のパリで絵画を優劣を決めていたのは、「サロン」と呼ばれる国家主催の展覧会でした。そして、「サロン」で認められない限り、画家は生計を立てることができない時代だったのです。つまり、「権威」だったわけですよ。
 
 
それ以後、経済的には苦しいままでしたが、意外にもたびたび「サロン」には入選しているんですよ。
 
 
28歳のとき、モネとともにセーヌ河畔の行楽地「ラ・グルヌイエール」でキャンバスを並べました。そして、「印象派」の特徴の1つ「色彩分割」の技法を確立させたのです。
 
 
1870年に「普仏戦争」が起こりルノアールは騎兵隊に従軍しました。その翌年、戦争が終わると「パリ・コミューンの動乱」に揺れるパリに戻りました。

 
 

「サロン」とは別の「印象派展」を開催

 

 
パリ・コミューンが落ち着いたころ、フランスの官展である「サロン」は、ますます保守的になっていきました
 
 
そうして、ルノアールやモネなど斬新な画風の画家たちの作品は、ことごとく落選が続いたのです。
 
 
ルノアールはモネピサロら仲間たちと共同出資会社を作って、1874年(33歳)に後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会を開催したのです。
 
 
写実的なアカデミズム絵画が規範だった当時の「サロン」では、新しい表現を志した「印象派展」は批評家から酷評にさらされ、なかなか絵が売れませんでした。
 
 
1876年には「第2回印象派展」に参加し、1877年には「第3回印象派展」に参加して「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」を出品しましたが、これらの作品も酷評されました。
 
 
ところが、その一方でルノアールの絵がよいという愛好家も増えていったのです。特に、ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻は、ルノアールの大切な後援者になりました。
 
 
1878年に、ルノアールは「サロン」に出品してまた入選しました。
 
 
それから後は、経済的な事情もあって正統派の「サロン」に応募を繰り返し、「印象派展」から離脱していったのです。

 
 

ラファエロとアングルの影響を受け独自の画風へ

 

アングル『ドーソンヴィル伯爵夫人』

 
1880年以降、ルノアールは色彩や形態があいまいになりがちな「印象派」の技法に限界を感じ、アルジェリアやイタリアに旅行します。そして、ローマでルネサンス期の巨匠ラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けたのです。
 
 
「第7回印象派展」に「舟遊びをする人々の昼食」という作品を出したころから、ルノアールの作品には明確な輪郭線が現れ始め、古典主義の影響を受けたのが読み取れます。
 
 
1883年(42歳)~1888年(47歳)頃には、デッサン重視ではっきりした輪郭線のある新古典派の巨匠アングルの影響を強く受けました。
 
 
その後、1890年代以降は「アングル風」の技法を脱して、あたたかい色調の女性裸体画をたくさん描きました。
 
 
それから徐々に画家として認められるようになり、作品を政府(国)に買上げられたり、勲章を授与されたりしました。
 
 
晩年は関節リウマチに悩まされるようになって、療養をかねて南仏で過ごすことが多くなり、南仏のカーニュ・シュル・メールで病気で亡くなりました。

 
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ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作品

 

 
ルノアールの代表的な作品をご紹介します。
 
 
始めの「ラ・グルヌイエール」は印象派としてモネとともに描いた絵です。
 
 
ルノアールは第3回印象派展の後、印象派から離れた作風を模索し始めました。
 
 
印象派の絵の光と輪郭線があいまいなのを好まなくなり、新古典派の巨匠アングルの絵の色と線を研究し、独自の作風で描き始めたのです。
 
 
ちなみに、私はアングルの冷たいといわれる色彩と線が大好きです。凛とした美しさを感じるからです。
 
 
ルノアールは後半に画風が変わったことから、「ポスト印象派」と呼ばれることもありますよ。

 
 

(1)「ラ・グルヌイエール」1869年

 

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ルノアールの「ラ・グルヌイエール」
 

     ↑
モネの「ラ・グルヌイエール」
 
水面に反射する「光の描写」が印象派らしさ満点ですね。
 
 
この絵のような「湖にきらめく光の明るさ」を表現するためには、絵具を混ぜてにごらせないようにタッチを1つ1つ分ける必要があります。
 
 
そうして、このとき4~5色のタッチの並置のなかに陽光をつかまえたようなソフトなタッチのキラキラした輝きの技法「色彩分割」が確立したのです。
 
 
「色彩分割」は、印象派の基本的な技法といわれますよ。

 
 

(2)「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」1876年

 

 
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は、ルノワールが35歳のときに描いた作品で「第3回印象派展」に出品されました。
 
 
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というのは、パリのモンマルトルに実際にあるダンスホールの名称です。
 
 
絵画の中に描かれたモデルの人たちは、彼の友人たちでした。
 
 
「光」の効果やあいまいな輪郭線、複雑な空間構成などが「印象派」らしい技法で描かれていますね。
 
 
この時代のダンスホールやカフェは、もっと退廃的な雰囲気でしたが、ルノアールはそれをそのまま描かず、かなり暖かく陽気な雰囲気に仕上げています。

 
 

(3)「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」1880年

 

 
「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は「印象派」の絵画の中でも、もっとも美しい肖像画の1つと称される作品です。
 
 
1880年の夏に、パリのユダヤ人銀行家の家の庭で描かれました。
 
 
モデルの少女は、ベルギーのアントワープ出身のルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女イレーヌです。
 
 
ルノアールの女性の肖像画は、本当に美しいですね。少女の白い肌が浮かび上がるような光の描き方で素敵です。

 
 

(4)「舟遊びをする人々の昼食」1882年

 

 
「舟遊びをする人々の昼食」は1882年の「第7回印象派展」に出品し、3人の批評家からもっとも優れた作品と称賛されました。
 
 
画商で後援者のだったポール・デュラン・リュエルがこの作品を購入しました。
 
 
流動的な筆づかいで表現豊かに描かれ、印象派らしい明滅する光が美しい作品です。

 
 

ルノアールの簡単年表


 
・1840年(0歳)
フランス中南部のリモージュで仕立て屋の6男として誕生。
貧しい家庭だった。
 
・1843年(3歳)
一家でパリに移住。
 
・1853年(13歳)
陶器の絵付け職人の弟子になる。
 
・1862年(21歳)
エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。
グレールの画塾に入ってモネ、シスレー、バジールらと知り合う。
 
・1869年(28歳)
「ラ・グルヌイエール」を制作。
(モネも同じとき同じ場所で同じ題名の作品を制作)
 
・1874年(33歳)
「第一回印象派展」開催。
 
・1880年(40歳)
光でぼけぼけの「印象派」の技法に疑問を持ち始める。
 
・1881年(41歳)
イタリア旅行。
ラファエロアングルの線と色を研究。
「印象派の色彩」「古典主義の形態」とを結びつけた独特の様式。
 
・1883年(43歳)
新古典派のアングルの影響を受ける。
 
・1880年後(50歳)
輪郭線と色の両方を生かす「真珠色の時代」様式へ変化。
 
・1890年(60歳)
アリーヌと正式に結婚。
暖かい色調が戻り女性のヌードを多数描く。
 
・1898年~(68歳~)
リューマチ性疾患を患う。
 
・1919年(89歳)
病没。
晩年は南フランスのカーニュで暮らす。

 
 
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