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こんにちは。
 
今回は、日本人に大人気の「印象派」の代表画家クロード・モネとその4つの代表作品を、ご紹介します。
 
 
日本では「印象派」の展覧会が開かれると、大勢の人が押し寄せますね。
 
 
展覧会の主催者側からすると、「印象派展」なら赤字にならないので安心なのだとか。だとすると、印象派ファンが多いからしょっちゅう開かれるのか、目にする機会が多いから印象派ファンが増えるのか・・・?
 
 
鶏が先か卵が先か・・・ですね。
 
 
「印象派」には、マネ、ルノアール、ゾラ、ピサロなど、他にもおなじみの画家がいますよ。
 
 
その中でも、モネは「印象派」という言葉の由来になった作品を描いた人で、とことん「光」にこだわった人なので、とりわけ有名です。

 
 

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「印象派」の「印象」って何?

 
 
「印象派」の画風はそれまでのルネサンス美術以降の写実的な画風と異なり、より自由に画家の思うままにキャンバスに表現する描き方です。
 
 
彼ら、とりわけモネの絵は「光」の使い方が非常に印象的です。従来のヨーロッパの絵画のような写実的な「影」を描かず、全体的に明るくぼんやりさせた淡い雰囲気の筆使いなのです。
 
 
それゆえ、モネは「光の画家」と呼ばれるのでした。
 
 
モネの後期の「睡蓮」などは、私のような素人目には、どこが花でどこが葉っぱかわからないほどぼやぼやしています。(72歳ごろから白内障で視力が落ちたので、その影響もあります)
 
 
でも、そういう色の使い方「光」の使い方がきれいだなーと人気があるのでしょう。
 
 
ちなみに、モネは晩年「睡蓮」を気に入っていて睡蓮をモチーフにした作品を200点以上残していますよ。
 
 
私は芸術はうんちくより直感で語りたいので、ぱっと見て素敵と思えば、その人にとって偉大な芸術なのだと思います。

 
 

クロード・モネの生涯を簡単に

 

 
モネは1840年パリで比較的裕福な家庭に生まれました。
 
 
幼い頃に家族でノルマンディーに移住しましたが、19歳のときにパリに出て本格的に絵を学びます。
 
 
そこで、ルノアールピサロなど同じ「印象派」の画家として活躍する人たちと出会いました。
 
 
モネは1865年からサロンに作品を出し始めましたが、始めはなかなか認められず、経済的に苦しい生活が続きました。
 
 
そのうち、印象派の画家仲間と新しい「表現」を生み出し、サロンから独立した展覧会を開催し始めます。
 
 
そうして、1874年にパリでモネ、ルノワール、ピサロ、ドガら30人で構成した画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社による「第1回展覧会」が開かれました。
 
 
この展覧会を見た批評家のルイ・ルロワは、モネの絵「印象・日の出」を取り上げて、パリの風刺新聞に冷笑したような記事を載せました。その記事に書いた「印象」という言葉が発端となって「印象派」という名称が生まれたのでした。
 
 
1870年に起った「普仏戦争」の兵役を逃れるため、モネはロンドンに渡って画商のデュラン・リュエルと知り合いました。これ以降、デュランはモネの大事な支援者となっていきます。
 
 
モネは、生前ほとんど絵が売れなかったゴッホなどと比べると、かなりのリア充画家ですよ。
 
 
まず、普通に結婚し家族に恵まれ、セーヌ川沿いの町で晩年まで穏やかに暮らしました。
 
 
1890年代には画家として認められ、徐々に名声が高まっていきました。そして、国家が作品を買い上げるほどの巨匠となり、「花の庭」や睡蓮の池で有名な「水の庭」を作ったのです。
 
 
裕福になっても、モネは慢心することなく「睡蓮」などの連作に挑み続けました。
 
 
晩年は白内障による視力障害に悩まされましたが、ただひたすら創作に打ち込み続け86歳の生涯を閉じたのです。

 

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「光の画家」モネ

 

 
ルネサンス美術以降、西洋画は写実的で重厚、決められた型にはまった作品が認められてきました。
 
 
絵画を優劣を決めていたのは、「サロン」と呼ばれる国が主催する大きな展覧会でした。そして、その「サロン」で認められない限り、画家として生計を立てるなんてあり得ないという時代だったのです。
 
 
でも、モネ、ルノアールなど「印象派」と呼ばれる画家たちは、形式にとらわれず自分の目で見たありのままの世界を表現しようと試み、その伝統に抗いました。
 
 
印象派の画家は、光があふれる自然の中で素早く情熱をもってキャンバスに色をのせました。時とともに移ろいゆく「光」の描写に注目して戸外での制作にこだわったのです。
 
 
それまでも戸外で絵を描く画家はいたのですが、それはあくまでもスケッチで、完成は室内のアトリエで制作していました。
 
 
印象派は「モノ」を描くのではなく、その「モノ」に降り注ぐ光の変遷を描くことに情熱を傾けたということです。
 
 
数々の印象派の画家の中でも、モネはもっとも「移ろいゆく光」にこだわり、それを終生描き続けた画家でした。

 
 

「ジャポネズリー」と「ジャポニズム」の時代

 

 
モネが活躍した19世紀後半は、フランスで日本文化が高く評価されたジャポニズムの時代でした。
 
 
1867年の「パリ万国博覧会」で日本美術が紹介されると、1870年代から1880年代に、パリを中心に日本ブームが巻き起こったのです。
 
 
1868年が明治維新なので、ちょうど日本の開国の時期ですね。
 
 
フランスの美術や工芸は、浮世絵のモチーフを次々と作品に取り込むようになりました。これをジャポネズリー(日本趣味)といいます。
 
 
一方、画家たちは、絵画に浮世絵の構図や空間表現、色彩など日本の芸術の造形の要素を取り入れて新しい視覚表現を追求しました。それをジャポニズムといいます。
 
 
1860年代にフランスで修行した印象派の画家たちは、日本美術に触れる機会を多く持ち、その影響を受けました。モネも日本の「浮世絵」に魅せられ、大きな影響を受けた1人です。
 
 
浮世絵は色使いや構図、モチーフなどが当時の西洋画とことごとく異なり、それらを始めて目にしたヨーロッパの芸術家たちはびっくりしたのです。
 
 
モネが浮世絵から影響を受けて描いた中でもよく知られているのが、妻カミーユをモデルにした「ラ・ジャポネーズ」という題名のこちらの絵です。

     ↓

 
 
本物の浮世絵好きな私としては、悪趣味だなーと思わなくもないですが、カミーユが可愛くて素敵ですね。
 
 

モネの代表作品

 
クロード・モネの代表作品、とりわけサロンなどで話題になった作品を4つご紹介します。
 

(1)「ラ・グルヌイエール」

 

 
「ラ・グルヌイエール」は、1869年に描いたモネの油彩です。
 
 
当時、同じセーヌ河畔の町ブージヴァルで暮らしていたルノワールと共に、「戸外の制作」として完成させた作品でした。
 
 
彼らはこの地で水面にはじける光を描き、対岸の樹葉に降り注ぐ陽光を自由に思うまま描きました。
 
 
この光の明るさを表現するためには、絵具を混ぜてにごらせないようにタッチを1つ1つ分ける必要があります。
 
 
そうして、このとき4~5色のタッチの並置のなかに陽光をつかまえたようなソフトなタッチのキラキラした輝きの技法「色彩分割」が確立したのです。
 
 
この「色彩分割」は、印象派の基本的な技法とされるものです。
 
 
波打つセーヌの水面の光の描写が素晴らしいですね。

 
 

(2)「印象・日の出」

【出典元:Wikipedia「日の出」】

 
1872年に書かれた「印象・日の出」は、印象派の名称の由来となったモネの有名な作品です。
 
 
モネはこの作品を、1874年の「第一回印象派展」に出典しました。
 
 
この絵を見た批評家のルイ・ルロワは、「ル・シャリヴァリ誌」に小馬鹿にしたような言葉を載せました。
 
 
「印象?たしかに私もそう感じる。しかしこの絵には印象しかない。まだ描きかけの海景画(壁紙)の方がマシだ。」と・・・
 
 
その後、モネらは反アカデミック(伝統主義)のバティニョール派が開催した最初の独立展覧会に出典しました。
 
 
そのとき以来、彼ら(モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、モリゾ、セザンヌ、シスレーなど)は「印象派」の画家と呼ばれるようになったのでした。
 
 
この作品にモネ、印象派の特徴的な手法「色彩分割」(細い筆勢で絵具本来の質感を生かした描写技法)が用いられています。
 
 
この新たな表現「色彩分割」こそ、当時のアカデミックな伝統主義とはまったく異なるモネのアプローチ方法だったのです。

 
 

(3)「散歩、日傘をさす女性」

 

 
1866年に描かれたモネの代表作品「散歩、日傘をさす女性」です。
 
 
モネは日傘を差して歩く女性の絵を気に入っていたのか、何枚も描いています。そのモチーフの中でももっともよく知られているのがこちらの作品です。
 
 
陽光の降り注ぐ中日傘を差した女性の絵は、光の影のコントラストが強調されるモチーフなので、好んで描かれたのではないかといわれています。
 
 
モデルの女性はモネの妻で、子供はモネの息子です。
 
 
子供を奥に描くことで、絵全体の奥行きが感じられるような構図になっています。

 
 

(4)「睡蓮の池と日本の橋」

 

 
こちらは、1899年に完成したジベルニーにある「モネの庭」の風景です。
 
 
浮世絵や知人の日本の話に感化され、日本庭園を意識してイメージ作りをした作品でした。
 
 
太鼓橋、柳の木、水面に輝く睡蓮のバランスが素晴らしいです。
 
 
60歳前の作品で、この頃のモネは精神的にも充実し、「庭造り」に熱心で、その庭を夢中で描いていました。

 
 

クロード・モネの簡単な年表


・1840年11月14日(0歳)
パリ・モンマルトルで誕生
 
・1845年(5歳)
家族でル・アーブルに移住。
 
・1859年(19歳)
パリに移住。
 
・1862年(22歳)
ルノワール、シスレー、マネなどと知り合う。
・1865年(25歳)
最初の妻カミーユ・ドンシューと知り合う。
 
・1866年(26歳)
「緑衣の女性」がサロンに入選。
 
・1869年(29歳)
「ラ・グルヌイエール」制作。
 
・1870年(30歳)
カミーユと正式結婚。
「普仏戦争」を避けロンドンに疎開。
 
・1873(33歳)「印象・日の出」
 
・1874年(34歳)
「第一回印象派展開催」
 
・1875年(35歳)
「日傘を差す女性」
 
・1879年(39歳)
「第四回印象派展開催」
妻カミーユ死去
 
・1886年(46歳)
「第八回印象派展開催」モネは不参加。
 
・1892年(52歳)
2番目の妻アリスと再婚。
 
・1893年(53歳)
ジヴェルニーの自邸で庭作りを始める。
 
・1899年(59歳)
この頃から「睡蓮」をたくさん描き続ける。
 
・1911年(71歳)
妻アリス死去。
 
・1912年(72歳)
白内障を患う。
 
・1914年(74歳)
長男ジャン死去。
 
・1926年(86歳)
12月5日死去。
 
・1927年
パリの「オランジュリー美術館」に「睡蓮の部屋」が完成。

 
 

おわりに

 
美術を知りたい方へのおすすめ図書をご紹介しますね。
     ↓

 
西洋美術を体系的に楽しく知るのに最適で、この記事を書くときもっとも参考にしたのが、こちらの巨匠に教わる絵画の見かた/視覚デザイン研究所/視覚デザイン研究所という書籍です。
 
 
ルネサンス以降の西洋美術の画家と作品が載っています。
 
 
近代以降は、他の芸術家の評価なども吹き出しで引用されていることが多く、画家仲間からどのように思われていたのかなど多角的に知ることができます。
 
 
たとえば、モネのところでは、ゴッホ、マティス、シニャックの一言が紹介されていますよ。引用元の「文献」も、きちんと索引に書かれています。
 
 
他には、同じ出版社から出ている鑑賞のための西洋美術史入門/視覚デザイン研究所/早坂優子もおすすめです。こちらは以前、美術検定を取ったときに参考になりました。
 
 
ルネサンス以前の宗教画に興味のある人は鑑賞のためのキリスト教美術事典 /視覚デザイン研究所/早坂優子がおもしろいです。
 
 
中世以前の西洋美術はほとんどが宗教画なので、キリスト教の基礎知識があるほうが断然、美術鑑賞を楽しめます
 
 
「視覚デザイン研究所」の美術本はオールカラー本で絵画の紹介が多く、勉強くさくなく楽しめるのでお気に入りなのです。
 
 
その割に後ろの索引がしっかりしていて、押さえるべきところはきちんと押さえられていますよ。

 

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