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今回は平清盛に愛され捨てられた「白拍子」祇王(ぎおう)の物語をお伝えします。
軍記物語には珍しい女性が多く登場するお話です。
清盛に愛された白拍子・祇王
祇王(ぎおう)は、都で人気の白拍子(しらびょうし)の名手でした。白拍子というのは、平安時代の末ごろから鎌倉時代にかけて流行した歌舞の一種です。
男性に扮した遊女が歌って踊ることが多く、宝塚歌劇団のトップスターのようなかっこよさだったのかもしれません。
祇王が清盛に会ったのは17歳のときで、天女のごとき美しさに魅了された清盛は、そのまま彼女を屋敷に留め置きました。
清盛は、彼女の家族・母のとじと妹の祇女のために屋敷を造り、毎月、百石の米と百貫の金銭を送りました。さらに、祇王の願いならなんでも叶えるという寵愛ぶりでした。
祇王の一家は都中の白拍子たちから憧れのまなざしを受け、ねたまれたりしました。
清盛の心変わり
それから3年の月日が流れました。
いつの時代も、権力者の心変わりは早いものです。
都に加賀国出身の若く美しい新人白拍子が現れました。名は「仏(ほとけ)」、まだ16歳です。都の人たちは、これまでたくさんの歌や舞を見てきたけれど、これほど素晴らしい舞は見たことがないと絶賛しました。
しかし、仏御前は、まだときの権力者・平清盛公にまだ召されていないのが心残りでした。ぜひ一度私の舞をみてもらいたいと思い、ある日、彼女は清盛の屋敷に出かけます。
人気絶頂・絶賛売り出し中の仏御前が来たということで、家来は急ぎ清盛に報告しましたが、清盛はそんなやつを呼んだ覚えはない、追い払えと命じました。
そのとき、白拍子の気持ちがよくわかる祇王は、仏御前を気の毒に思い、せめてお目通りだけでもと清盛に必死にとりなしてあげました。清盛は、寵愛する祇王がそのように頼むならばと、しぶしぶ仏に会うことにしたのです。
清盛は仏に「今様を舞ってみろ」と言いました。
仏御前の今様はとても美しく、それを気に入った清盛は、次に舞も披露しろと命じました。
舞は仏御前の一番得意なものです。その舞はそれはそれは素晴らしく、清盛はすぐに心を奪われ、屋敷に召し抱えると言い出しました。
仏御前は、祇王のとりなしでお目見えできた身なので、それは許してほしいと言いましたが、清盛は許しません。
祇王がいるから気を使ってしまうのか、それでは祇王に暇を出すと言う始末です。心変わりをしたとたん、清盛は祇王が目障りになったのでしょう。
仏御前は、とりなしてくれた優しい祇王が自分のせいで追い出されてしまうことになり、心を痛めました。
祇王は、いつかこのような日が来ると覚悟はしていましたが、それが今日とは思いもよりませんでした。
すぐに出ていけと命じられ、3年間暮らした部屋を懐かしく思いながら、きれいに後片づけをしました。自然に涙がこぼれます。そして、去り際にせめてもの忘れ形見にと、ふすまに1首、書き残しました。
萌え出づるも
枯るるも同じ
野辺の草
いづれか秋に
あはで果つべき
訳「新しく芽を出す草も枯れていく草も、同じただの野原の草なのよ。やがて秋になれば、いずれ枯れていく、野辺の遊女は飽きられるの」
清盛のさらなる仕打ち
翌年の春、屋敷を出た祇王に、清盛から使いがありました。仏が元気がないので参上して仏の前で舞を舞ってなぐさめよという命でした。
追い出しておいて、その原因になった女性をなぐさめるために来いというです。なんとも身勝手で理不尽な命令でした。
自分がみじめで情けなくて祇王は返事をしませんでしたが、清盛からの使いは何度も来ます。
母・とじの説得もあり、とうとう祇王はいやいやながら清盛の屋敷に向かいました。
屋敷に到着した祇王は、以前とは打って変わってはるか下の貧相な座敷に通されました。
祇王が下の座敷に通されたことを知った仏御前は、たいへん気の毒に思い、こちらへ通してくださいと清盛に頼みましたが、聞き入れませんでした。
やがて、祇王が清盛に対面すると、彼は「今様」を一つ舞って仏をなぐさめろと命じました。
袖で涙をおさえつつ、祇王は「今様」を歌います。
仏も昔は凡夫なり
われらも終には仏なり
何れも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
訳「仏様もその昔は凡人でしたのよ、私たちもしまいには仏様になれますのよ、どなた様も仏性を具えていらっしゃるのです、それを分け隔てて扱いなさって悲しいですわ」
その場にいた公卿から身分の低い侍まで、すべてが感涙に耐えない様子でした。
清盛も感動し、「このごろの今様では神妙なできばえだ。舞いも見たいところだがこれから他に用事がある。これからは召さずともいつでも参って今様を歌い、舞を舞って仏をなぐさめよ」と命じました。
祇王は、あまりの情けなさに返事ができず、涙を飲んで退出しました。
出家し嵯峨野で庵を結ぶ
清盛の屋敷から戻った祇王は、あまりにもみじめで、情けなくみっともない目にあったことに絶望し、自害しようと決意しました。妹の祇女も一緒に身を投げると言います。
これを聞いた母のとじにが娘2人を説得し、自害は思いとどまりました。でも、都にいればまた同じようなつらい目に会うでしょう。そこで3人は、出家して都を離れることにしました。
祇王21歳、祇女は19歳でした。
そうして、母子3人は、嵯峨の奥にある山里に粗末な庵を結んで、ひたすら念仏を唱える暮らしに入ったのです。
仏御前の訪問
春が過ぎて夏になり、秋の初風が吹く季節になりました。祇王、祇女、とじの3人は、夕日がかかる西の山の端を見て、いつかは我らも西方浄土に行こうと念じていましたが、つらい日々の悲しみが思い出されて涙が枯れることはありませんでした。
ある日、たそがれ時を過ぎたころ、3人の暮らす庵の竹戸を叩く音がしました。
魔物がやって来たのだろうかと怯えながら竹戸を開けると、なんとそこには、あの仏御前が立っていました。
「これは夢なの? 現(うつつ)なの?」と祇王は「夢かうつつか」と、おどろいた祇王がつぶやきました。
仏御前は涙をおさえて言いました。
「いまさら言い訳にしかならないかもしれませんが、申さなければ人情も世の道理もわきまえぬ身となってしまいます。そもそも私はあなたさまのおとりなしがなければ、お目通りがかなわぬ身でした。あなたさまが暇を出されて、私が屋敷に留め置かれたことは、恥ずかしくとても苦しいことだったのです。ふすまに『いづれか秋にあはで果つべき』と書き置かれた筆の跡を見るたびに、本当にそうだわと思っておりました。」
仏御前は、いずれ自分も同じようになるだろうと思い、3人の行方を捜したこと、人の噂で出家して念仏三昧の暮らしをしていると知ったことなどを話しました。
仏御前は3人の暮らしを聞いてうらやましく思い、清盛に暇を申し出たけれど許されなかったそうです。
そうして・・・
「今朝、入道様の屋敷を忍び出て参りました」
かぶっていた衣をはずずと、仏御前はもう剃髪して尼になっていたのです。
「このように姿を変えて来ましたので、どうか祇王様、これまでの私の仕打ちをお許しくださいませ」
仏御前は袖を顔に当ててさめざめと泣きました。
「あなたがそのように思っていてくれたとは夢にも知りませんでした。あなたのことが怨めしかった。でもこうして来てくれた今となっては、もうなんの憂いもありません。」
そう、祇王が答えました。
「さあ、ご一緒に往生を願いましょう」
祇王、祇女、仏、とじ、4人は一緒に庵に籠って、朝に夕に仏前に向かい、花や香を供えて一心に往生を願いました。
そうしてついに、遅い早いの違いこそあれ、4人そろってきちんと往生を遂げたといわれます。
後白河法皇の建立で六条内裏に造立された法華長講阿弥陀三昧堂の過去帳に、「祇王、祇女、仏、とじの尊霊(そんりょう)」と一ところに書き入れらているのでした。
おわりに
この祇王の話は、『平家物語』一の巻のはじめのほうの「女人往生」の挿話です。
前後の話と趣が違うため、後に挿入された話ではないかといわれています。
『古今著聞集』の「仁和寺の童千手参川が事」が元ネタなのではという説もあるぐらいです。(仁和寺の僧と寵愛された2人稚児の話で、祇王に当たる稚児が見事に「今様」を歌ってリベンジしたという結末の違う話です)
白拍子は人気商売の遊女なので、若手に追い落とされるのはよくある話なはずです。
しかも、祇王は清盛に捨てられても、身請けしたいと願う公卿はわんさかいたわけですよ。
まだ21歳でそんな簡単に仏門に入らんでもと思いますが、それほど絶望したのだとしたら、祇王は本当に清盛を愛していたのかもしれませんね。
まだ17歳で、自分の行く末を読んで同じく仏門に入った仏御前も聡明すぎてびっくりです。
嵯峨野は今は季節ごとに趣のある観光地ですが、平安時代は都の結界の外、魑魅魍魎が跋扈する地でした。
そんなところで女性4人で暮らすというのは、本当に大変な覚悟だったと思います。(フィクションでないならばですが)
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