この記事を読むのに必要な時間は約 23 分です。
古典軍記の大作『平家物語』には、見せ場といえる名場面がいくつかあります。
今回は、源氏がとうとう平氏を追い詰めていく「屋島(やしま)の戦い」で有名な「扇の的射ち」の話を中心にお伝えします。
この「扇の的」の話は、当時の平氏と源氏の違いや人々の考え方が少し垣間見えるおもしろいシーンです。
簡単にいうと、「扇の的を射ぬけ!」という源義経の無茶な命を受けた那須与一が見事にそれを遂行したという話です。
それでは、そこに至る過程をお伝えしましょう。
目次
「屋島の戦い」の名シーンはこうして生まれた
源氏と平家の戦いは、始めは一進一退のように思われましたが、1185年2月の「一の谷の戦い」(神戸)で完全に源氏優位に傾きました。
「一の谷の合戦」については⇒★こちらをどうそ。
そして、それから約1年後に起こった大きな武力衝突が、「屋島の戦い」なのです。
戦の場所は、平家が西へ西へと落ちていきそれを源氏が追いかける形で西へと移っていきました。
「屋島(やしま)」は四国の高知県高松市で、もともと平氏の本拠地だった場所です。
決め手に欠けた「屋島の戦い」
1185年2月、源義経は讃岐屋島へ逃れた平氏を追って、海から阿波に上陸しました。
そして、そのまま陸路で迂回して、屋島で平家を背後から急襲したのです。
義経お得意のゲリラ戦です。
びっくりした平家の兵たちは急いで船に乗って海へ逃げましたが、冷静になると源氏の軍が意外と少ないと分かり応戦しました。屋島は激しい攻防戦になります。
でも、戦いはなかなか勝敗がつかず、日が暮れてきたので両軍はいったん引き分けようという雰囲気になりました。
そのとき、沖にいる平家の軍の中から若い美女を乗せた小舟が一艘、源氏の陣のほうへ漕ぎ寄せてきたのです。
風流を解する平家の「扇の的」あそび
当時の平家の人々は貴族化していたため、兵たちも風流人のようでした。
そのとき、平家の武将・平教盛が、我らはまだまだ負けておらぬと余裕を見せる余興をしてはどうかと言い出しました。
合戦での風流な趣向・・・
彼らは「扇の的」を弓で射落とす「戦(いくさ)占い」をしてはどうかと考えました。
小舟の先頭に竿(さお)を立てて、そこに「扇」を結びつけ射させる余興です。それは源氏への挑発行為でもありました。
大将の平宗盛(清盛の次男)は、大将としてはかなり残念な人でしたが、風流な遊びにはよく通じ演出力も抜群だったので、「それは面白い!」と話に乗りました。
そうして、「紅地に金の日輪が描かれた扇」を柱の先に立て美女を乗せた小舟が、陸の源氏のほうに向かっていき、美女に手招きさせたのです。
平家の挑発を受けて立つ源義経
一方、源氏軍は源義経の全軍引きあげの命を受け、その場を離れようとしていました。
そのとき、沖の方に一艘の小舟が漕ぎ出してくるのが見えました。その小舟には赤い物が掲げられています。
よく見ると、それは日輪が描かれた扇でした。竿(さお)を立てたその先に「紅の地に金箔の日の丸を押した扇」をつけていたのです。
小舟の上には、18~19歳の白と青の襲(かさね)を着て紅の袴をつけた美女が乗っていました。
かなり度胸のある美女ですよ。「平家物語」では、この女性は「玉虫」という名で登場します。
その美女が源氏の兵に向かって手招きしました。
その様子を見た源義経は、後藤実基に「あれはどういうことだ」とたずねました。
「あの扇を射てみよと申しているのではないでしょうか?」
義経もそうでないかと思っていたので、うなずきました。
「兵の中に弓の上手はいるか?」
そうして白羽の矢が立ったのが、無名で平凡な小男・那須与一(なすのよいち)だったのです。
義経のムチャ振りにやるしかなかった那須与一
波の上で揺れる小舟の上の扇の的を射るなんていう離れ業、できるはずがありません。
『平家物語』によると、先に指名された者たちはみんな辞退しました。
那須与一は辞退した兄の代わりに仕方なく引き受けたのです。貧乏くじですね。
「こんなムチャぶりないわ~!絶対無理!」といきどおる与一の心情が、『平家物語』にしっかり描かれています。
両軍そろって大注目の中の「的当て」ゲームです。もちろん単なる「余興」では済まされません。
失敗したら義経の顔に泥を塗ることになりますし、源氏の士気はがた落ちです。まず生きてはいられないでしょう。
でも、義経に「やれといったらやれ! やらないなら帰れ!」とキレられて、与一は引き受けざるを得ない状況になっていました。
与一は「矢を外したら切腹する」(平家物語)と誓って意を決し、馬を進めたのでした。
那須与一「扇の的」を射る
那須与一は弓を持って黒馬に乗り、海にむかいました。
「もはや死ぬほかないのだな・・・」
海に馬を乗り入れましたが、扇の的まではまだ40間(けん)余り(約70メートル)もありました。その上、嵐の後で北風が激しく吹き「扇の的」は小舟と共に絶え間なく揺れていました。
両軍すべての人々に注目される中、那須与一の心の中にはいろんな思いが交錯しました。
鳥ならば飛んで行く方向がわかります。でも、波に揺れる扇の動きはさっぱり予想が出来ません。
とても難しい的でした。
与一は逃げられるものなら逃げたかったのですが、ここで逃げては生命は助かっても、もう世間に顔向けできません。それは死と同じ事でした。
こうして「扇の的」は伝説となった
那須与一は、また六間(約10.8m)ほど、海中へ入っていきました。
それでも扇との間は、まだ四十間(約72m)ほどもありました。
ついに、与一は扇をにらみつけて矢をつがえます。
「南無八幡(なむはちまん)」
そう念じて、彼は渾身の力で矢を放ちました。
矢はうなりを立てて解き放たれ、見事に命中!!
扇は空へと舞い上がり、その後はらはらと舞い落ちて海の中に消えていきました。
それまで固唾(かたず)を飲んで見守っていた源平両軍すべての兵たちは、大歓声を上げて那須与一をほめ讃えました
「扇の的射ち」にはヒドイ続きがあった!
那須与一の「扇の的」の話は、源平両軍が共に鑑賞しほめたたえたという戦場での前代未聞の出来事でした。
「平家物語」でも名場面の一つで、中学校の国語の教科書にも載っています。
でも、この話には続きがあり、めでたしめでたしというすっきりさわやかな後味では終わらないのです。
那須与一が「扇の的」を見事射落としたことで、両軍はどっと沸いてお祭り気分になりました。
そうして、平氏の伊賀十郎兵衛家員という武者が、感極まって船上で踊りだしました。
するとそのとき、義経はなーんと「あの男も射てしまえ!」と与一に命じたのです。
与一は伊賀十郎兵衛にも、見事に矢を命中させました。あらら・・・
丸腰で戦意のない者に矢を射るとは!
この光景を見た平氏は、当然大激怒です。
そうして、再び合戦が始まったのでした。
さすが義経、容赦ないですね・・・
義経はなぜ平家の老武将も射させたのか?
「扇の的」は戦の合間の余興、いわば「戦(いくさ)占い」のようなものでした。
だいたい平家は、源氏へのこういう挑発行為が裏目に出ることが多いです。なんでわざわざそういうことするかなーという感じです。
扇落としが成功しどっと歓声が上がったところで、義経は船の上で踊っていた老兵を射るように与一に命じました。
この空気を読まないひどい仕打ち、なぜ義経はこんなことを命じたのか?
その理由は『平家物語』にも『源平盛衰記』にもはっきりとは書かれていません。でも、そんな推測の域を出ないところが「古典」の題材としてはおもしろいところです。
(1)義経はゲリラ戦が大好き、スキあらば攻めてしまう気性だった?
(2)合理的思考の義経が今は戦争中だと皆の目を覚まさせるよう仕向けた?
(3)風流を理解しない源氏(義経)の無粋さ非道さを際立たせた?
いろいろ考えられますね。
「平家物語」の中では、平家側が「あな無慈悲、心なき源氏の奴輩(やつばら)」と言ってますので、その辺りからある程度は予想できるでしょうか。
那須与一のその後は?
「扇の的」は『平家物語』の中でも名シーンです。
でも、実はこのエピソード、『平家物語』と『源平盛衰記』にはあるものの、重要な史料『吾妻鏡(あずまかがみ)』には登場しないのです。
「物語」にはあっても「史料」にはない、つまり実在した人物、エピソードなのか定かでないということです。
那須与一のその後については、若くして伏見(京都府)で病死した、家督を兄に譲って仏門に入ったなど諸説あります。
争乱が終わった後、「源平合戦」の死者を弔うため仏門に入った源氏の兵は、他にも多くいるようなのでそうだったらいいなと思います。
「屋島の戦い」の後は?
「屋島の戦い」は源氏にとっても楽な戦ではありませんでした。
この戦いで奥州平泉から共に戦い続けた郎党の佐藤継信が、義経の盾(たて)となり討死しました。
でも、源氏がこの屋島を落としたことで、平家は四国の拠点を失ってしまいます。
そして、このとき九州地方はすでに源範頼の軍に押さえられていました。
平家は彦島に孤立してしまい、その約1カ月後、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」にのぞんだのでした。
「壇ノ浦の合戦」は⇒こちらに!
【参考図書】
さらっとおさらいしたい人におすすめ↓
【関連記事】