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平清盛の娘にして、第81代安徳天皇の母・平徳子(建礼門院)は、位としては女性としての栄華を極めたかに見えますが、悲しい一生を送った人です。
 
 
夫・高倉天皇を早くになくしたため尼になり、建礼門院(けんれいもんいん)という法名で呼ばれるようになりました。

 
 

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平徳子・清盛の娘として誕生

 

 
平徳子は、1155年、平清盛と時子との間に誕生しました。
 
 
そうして、1171年には法皇の猶子(名前だけの養子)として入内しました。
 
 
徳子は武家の「平氏」の娘です。入内して皇后となるような身分、五摂家のような格式ある家柄と張り合えるような身分ではありません。
 
 
それを後白河法皇の養女として入内させたのですから、かなりのゴリ押しでした。
 
 
それができたのは、先手を打って清盛の妻・時子の妹・平滋子(しげこ)を上皇の元に送り込んでいたというのもありました。
 
 
滋子はたいへん美しい女性で、若いころから遊びつくしていた後白河法皇にたいそう気に入られていたそうです。
 
 
そして、その滋子の産んだ皇子・憲仁(のりひと)親王が、皇太子となっていました。武家の娘の子が皇太子ということで、摂関家のみなさまは大反対したそうですが、権力者・後白河法皇が押し切って立太子したのでした。
 
 
この憲仁(のりひと)親王が後に高倉天皇となり、平徳子の夫となります。

 
 

15歳で入内し皇子を出産

 

 
1171年、平徳子は後白河方法の猶子となり、御所で結婚の支度を整え入内しました。
 
 
高倉天皇11歳、平徳子15歳のときでした。
 
 
現代ではまだ子供同士と思えますが、高倉天皇はすでに乳母から恋の手ほどきを受けている早熟で、ついでに女好き(公家的には雅なこと)でした。
 
 
この2人、母親が姉妹なので従姉弟同士です。
 
 
そして、当時の上流の婚姻は一門の行く末を左右するような公事です。徳子も高倉天皇との相性なんてつまらぬことは考えていなかったでしょう。彼女の肩には「平家一門」の将来がかかっていました。
 
 
そうして、彼女は22歳のとき、父・清盛に最高の贈り物をしたのです。
 
 
高倉天皇との間の男子・後の安徳天皇の誕生です。

 
 

平徳子「国母」となる

 

 
高倉天皇と徳子との間に生まれた皇子は、わずか生後1ヶ月で皇太子となりました。(←清盛のゴリ押し)
 
 
これで清盛は次期天皇の外祖父となったのです。
 
 
院政時代の前、かつて栄華を極めた藤原氏の摂関政治と同じ手法でした。
 
 
これで平家の栄華は約束されたも同然!
 
 
こうして「平家物語」の「おごる平家」が出来上がっていきました。
 
 
でも、それをおもしろくないと思っていた人がいました。朝廷の頂点に立つ後白河法皇です。朝廷が絶大な権力を持ち続けるためには、1つの武家に力が集中するのは危険だったからです。
 
 
そうして、平清盛と後白河法皇の対立が、だんだん大きくなっていきました。
 
 

「源平の争乱」始まる

 

 
平清盛と後白河法皇の不和に目をつけたのが以仁王源氏の長老・源頼政でした。
 
 
すでに、平家のおごりに我慢の限界だったこともあり、1180年(承久四年)5月とうとう武力をもって平家に反旗をひるがえしたのです。
 
 
源頼政は源頼光の血筋で、若い頃は「鵺(ぬえ)退治」の伝説を持つ弓の勇者でした。
 
  
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以仁王と源頼政の決起は間もなく鎮圧されましたが、以仁王の出した平氏打倒の「令旨(りょうじ)」を各地の源氏の武将が受け取り、9月には木曽の源義仲(みなもとのよしなか)が、10月には伊豆の源頼朝(みなもとのよりとも)が相次いで挙兵しました。
 
 
こうして「源平の争乱」が始まったのです。

 
 

「源平の争乱」を生き延びて

 

 
1181年の年が明けてまもなく高倉上皇と平清盛が相次いで亡くなりました。
 
 
高倉上皇の死を受けてから、徳子は「建礼門院(けんれいもんいん)」という号で呼ばれます。
 
 
1183年(寿永二年)、「倶利伽羅峠の戦い」の後の木曽義仲の都入りを前に、平家一門は都を落ちました。
 
 
徳子は27歳、6歳の安徳天皇をともなっての都落ちでした。
 
 
そうして、源氏と平氏の戦いは、4年後の1185年(文治元年)3月、「壇ノ浦の戦い」で源氏の勝利で幕を下ろしました。
 
 
この戦いで、平家の切り札・息子の安徳天皇(当時8歳)と「三種の神器」を抱きかかえた母・二位尼は海の底に沈みました。
 
 
建礼門院は2人が飛び込んだ後を追いましたが、プカプカと浮いてしまい、源氏の兵士に熊手で救い上げられてしまいました。

 
 

京都の北の端っこ大原「寂光院」で尼になる

 

 
「壇ノ浦の戦い」の後、源頼朝が鎌倉幕府を開き源氏の世となりました。
 
 
建礼門院はその後すぐに出家して尼となり、亡くなった「平家一門」の御霊を鎮めるため祈り暮らしました。
 
 
彼女が暮らした庵は京都の北の端っこ、京都駅からバスで1時間ぐらいかかる洛北(田舎)の大原の里にありました。
 
 
その大原にある聖徳太子が建てたといわれる「寂光院(じゃっこういん)」で、彼女は余生を送ったのです。
 
 
最近の京都は観光客だらけ、市民の生活がおびやかされそうなにぎわいですが、大原まで来るとさすがに静かですよ。
 
 
先日、大原三千院に行きましたが、観光バスが数台止まっているぐらいで山里の静けさが残っていました。
 
 
もともと京都の北の山間にあるこの地は、「都」に見切りをつけた人々の隠れ里でした。
 
 
「平家物語」の「大原御幸」に、後白河法皇が建礼門院を訪ねたときの様子が書かれていますが、さすがに彼女は会いたくないと言っています。
 
 
無理もないですね。後白河法皇こそ父の清盛とともに、彼女の人生を翻弄した張本人ですから・・・
 
 
建礼門院は、余生を「平家一門」の冥福をただただ祈って過ごしたと伝わります。

 
 

柴漬け

のふるさと「大原」

大原にこもった建礼門院をなぐさめるため、紫蘇(しそ)と夏野菜を漬け込んだ漬物を里の人々が差し入れしました。
 
 
里人たちのやさしさとその美味しさに建礼門院は、心を打たれました。
 
 
「紫色」は皇室でも最高位の者だけが身に着けることのできる高貴な色で、強力な魔除けの色でもありました。その「紫色」の漬物を彼女はたいそう気に入りました。
 
 
そして、建礼門院は紫蘇(しそ)の色合いと香りからこの漬物を「紫葉漬け(むらさきはづけ)」と名付けたと伝わります。
 
 
それが現在の「紫葉(しば)漬」の由来です。
 
 
建礼門院は里人たちにもらった京野菜を、自分でも漬けていたそうです。
 
 
このひっそりとした寂しい里で、少しでも心あたたまることがあったらと思えます。

 
 
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